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経験学習における「経験」の意味

経験学習について調べると、「学習」に比重を置いた説明を目にすることが多い。「いかに学ぶか」という問いへの答えは溢れている。

たしかに、自分でも「いかに学ぶか」について書いている。

一方で、「経験」にフォーカスした説明は、あまり見ない気がする。

(経験学習における)「経験」とは、いったい何を指すのだろう。それを知ることは、経験学習や日常での振り返りをより深く知ることにつながるはずだ。


「経験」って何なんだ?

「経験学習における経験」については、こんな説明がある。

ボルノーは、「経験」の概念を、語源学的に探究し、 1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」 という3種類の異なる位相の交点に見いだす。

1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」とは、経験を語るメタファである。 ボルノーにとって「経験」とは、学習者自らが主体的に身体を投じ、ゴールにたどり着くという確証のないままに、それでも歩き続けなければならない状況を意味しており、それは「旅」 「遍歴」 「彷徨」というメタファに近いのだという。

2)の「苦痛」「忍耐」とは、 1)の自らの身体を投企して歩き続けるような状況下においては、「辛いこと」「苦しいこと」 「苦痛であること」が必然的に生じ、それに 「忍耐すること」が求められることを表現するメタファである。(中略)

しかし、 高次の認識は、先に見たように常に「約束されたもの」ではない。それを示すのが、 3) のボルノーの最後のメタファである 「賭け」 だ。 「賭け」のメタファにおいては、身体を投企し、 苦痛に耐えることは、決して学習者にとって安全で快適な環境を意味しないばかりか、それを経たとしても、何かを獲得できるかできないかに関して 「確定的な保証」がないことを意味する。むしろ経験を通した学びは「賭け」に近い性格を持ち、一定のリスクが存在していることを含意している。

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《1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」という3種類の異なる位相の交点》はたしかに、「経験学習」「振り返り」「仕事での成長」などといった文脈で使われる「経験」という語のニュアンスをよく表しているように感じる。

SHISHAMOの『明日も』が描く「経験」

ここで突然だが、SHISHAMOの『明日も』という曲を聞いてみてほしい。

きっとどこかで耳にしたことのあるメロディーだと思うが、歌詞に着目すると、そこにはたしかに《3種類の異なる位相の交点》が見え隠れする。

月火水木金 働いた
(中略)
だけど金曜日が終われば
大丈夫週末は僕のヒーローに会いに行く

《月火水木金》という平日5日間の 「旅」 「遍歴」 「彷徨」を、《ゴールにたどり着くという確証のないままに、それでも歩き続け》る《僕》。そんな《僕》にとって、《ヒーローに会いに行く》週末は、かりそめのゴールだ。

まだ分からないことだらけだから
不安が僕を占めてしまう
時々ダメになってしまう

《不安が僕を占めてしまう》、そして《時々ダメになってしまう》という平日5日間の 「旅」 「遍歴」 「彷徨」はたしかに、「苦痛」「忍耐」のなかを進む。

痛いけど走った 苦しいけど走った
報われるかなんて 分からないけど

そう、「苦痛」「忍耐」のなかを進む「旅」 「遍歴」 「彷徨」は、《報われるかなんて 分からない》。そんななか、《痛いけど走った 苦しいけど走った》日々は、その先に何かを見据えている「賭け」そのものだろう。

この曲が持つ、日常を過ごすなかで感じるなんとも言えない息苦しさや、そのなかでも投げ出さずになんとか前に進もうともがく感じは、もしかしたら、《僕》や《私》がまさに、 《1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」という3種類の異なる位相の交点》としての「経験」を通して学習(疾走)している姿から想起されるのかもしれない。

現場での実践に向けた「経験」の翻訳

「経験」の語義としての理解であればたしかに、 《1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」という3種類の異なる位相の交点》というのはしっくりくる。

一方で、その語義(理論的基盤)を元手にして、現場での実践を考えていくうえでは、もうひとひねり(翻訳)したいなと思っている。

つまり、《 《1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」》というのは、たしかにその通りなのだけど、少し「気が重く」映るのだ。

《 《1) 「旅」 「遍歴」 「彷徨」、 2) 「苦痛」 「忍耐」、3) 「賭け」》を卑近に丸めてしまえば、「石の上にも三年」という格言に行き着く。いまこの格言を聞いて「さあ、がんばろう」と希望の光を見る人は、昨今のキャリア観を鑑みるに、少なくなってきてるんじゃないだろうか。良いか悪いかは置いといて、ある種の時代的要請として、「石の上にも三年」への嫌悪感はあると思っている。

SHISHAMOの『明日も』は、独特な転調でもって強烈な印象を残す。

「経験」が持つイメージも、現場での実践に即した転調ができないだろうかと日々考えている。その転調がうまくいけば、「経験」についての理論的基盤と時代的要請の新しい交点が見つかり、ひいてはそれが、経験学習や日常での振り返りをうまくできる人を増やすことにつながると思っている。

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