【(創)作文とエッセイ】 偽りの 文集「おかやまっ子」作文 佳作

     田うえ               
                                      一ねん あき山やす子

 きのうは、日よう日だったので、しんせきのおじさんとおばさんのいえにいって、田んぼで田うえをするのを手つだいました。
 おじさんとおばさんのいえについたら、すぐにおばあさんが、
「大きゅうなったなあ。またべっぴんになったなあ。」
とほめてくれました。わたしは、うれしくて、すぐにおかあさんにもおしえてあげました。でも、おかあさんは、
「おせじじゃが。」
といいました。わたしは、ちょっとなみだがでそうになりましたが、いとこのまことにいちゃんが、
「やすこ、こっちにはようきて、てごうしてくれえ。」
というので、まことにいちゃんの手つだいにいきました。
    わたしは一かいだけ、田うえをしたことがありましたが、ぜんぜんやりかたをおぼえていませんでした。
「どうやるん?」
とききました。
「こうやったら、ええよんできるで。」
と、おばさんが、やりかたを見せてくれました。ちょっとむずかしかったですが、わたしはおもしろくなってどんどんどんどん、うえました。
  さきに、まことにいちゃんや、うちのおとうさんが、ひものようなものをもってれつをつくります。そのれつのところにみんなでならんでなえをうえていきます。
    みんなで、三かいしました。そこで、わたしはつかれたので、
「もうえろうなった。しとうのうなった。」
といいました。
「ほんなら、もうしまいにしょうや。」
と、おとうさんがみんなにいいました。
「へえでも、田うえはおわっとらんで。」
「のこりは、ほんなら、いつするん。」
と、おばさんと、おかあさんがこわいかおをしました。おかあさんは、わたしをみて、
「あんたが、わがままなけえ。いっつもじゃ。つれてこにゃよかった。」
といいました。
おとうさんが、
「まあ、そういうたるな。まだ、小がっこう一ねんせいじゃけん。あかちゃんじゃけん。」
といいました。
「そうじゃなあ、あかちゃんじゃなあ。」
とおかあさんはいって、わらいました。
    そうしたら、まことにいちゃんも、
「あかちゃんじゃ、あかちゃんじゃ。」
となんべんもいうので、わたしも、くやしくなったので、
「まことにいちゃんやこう、十円はげがあるのにから。」
といいました。
    すると、まことにいちゃんが、いままでみたこともないようなかおをしました。おこって、たたかれるかもしれないとおもいました。まえに、まことにいちゃんのうちで、いとこのみんなでとまったとき、けいこねえちゃんや、みちこねえちゃんが、
「まことの十円はげ、十円はげ。」
となんべんもいったので、まことにいちゃんがなきました。わたしは、まことにいちゃんが、かわいそうでしかたがありませんでした。でも、わたしは、まことにいちゃんに、はげがあるというのを、そのときはじめてしりました。
    ほんとうは、いったらいけないとおもいました。でも、みんなに、やすこはあかちゃんだといわれて、わたしはくやしかったのです。まことにいちゃんが、おこってたたいてもしかたがないとおもいました。わたしは、目をつぶりました。
   そうしたら、あたまのうえに、まことにいちゃんが、てをのせてくれました。わたしが、びっくりして、めをあけたら、まことちゃんがにこにこしていました。そして、
「やすこ、えんで。なかんけえ、ぼくも。やすこも、なかんでえよう。」
といいました。
    おかあさんは、ちょっとおこったかおをしていましたが、おとうさんとおばさんはわらっていたので、わたしもわらいました。
   これからは、まことにいちゃんの気もちを、もっとよくかんがえようとおもいます。たのしい、田うえの一日でした。

こうひょう
    あき山さんは、たのしい田うえをしたんですね。しんせきのおにいちゃんにわる口をいってしまったことを、はんせいしているのが、よくつたわります。田うえのようすも、いきいきとかけています。おかあさんやあきやまさんたちがはなしているのが、目にうかぶようなかきかたで、かんしんしました。でも、もっともっとおかやまべんをつかうと、あきやまさんやみんなのきもちが、もっとよくわかってもらえますよ。あきやまさんは、一年生なのに、たくさんかきましたね。でも、こんどかくときは、さくぶんのまいすうをまもってかきましょう。

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最後は反省でしめる。とにかく行を埋めて、所定の枚数にする。会話文は、言ったそのままを方言まるだしで書く。

小学生だった頃の、学校の作文の思い出です。

以前の投稿で、地方に育つ子らは、二重言語で暮らしていると書きましたが、その二つの言葉の使い分けを、書き文字にすると、こういう感じになります。

「おかやまっ子」というのは、実際にある、県をあげての作文コンクールの作品集です。私も、小学生の時は、何回か送った、正確に言うと、学校の先生が送るものに選ばれたことがあります。名前だけが載っているのを、一回見たことがある気がしますが、定かではありません。なにしろ、県をあげてですから。

岡山だけではないだろうと思いますが、私の地方の先生たちは、作文の会話のところは、直接話法で、そして方言を使って書くように言います。私も、そうしましたし、先生に、特に、「おかやまっ子」のような何かに応募する時には、言ってなくても、言ったことをつけくわえるように、添削指導を受けたことがあります。文が生き生きとするからです。ちょっと大きくなって、方言で書きたくないのに、と思うことがでてきても、自分のことを書く作文だけは、観念して、というか、そのジャンルのやり方だと思って、したがって、そう書いていました。

ブレイディみかこさんが、イギリス、ブライトンに住む人のことを書いて評判を呼びましたが、英語で話したはずのことが、筆者の豊かな表現力ともあいまって、生き生きとした、躍動感のある日本語の発話になっています。 そういうのは、子どもの書き物ではだめなんですかね。
 
私は、方言を使わせない方がいいと言っているのではありません。でも、どちらの書き方もあり、だと思います。

それでも、会話を全部、方言表記にすると、つまらない、たいして意味もなにもない書き物に、簡単にアクセントがつくのもほんとうです。あたまの作文でわかるように。

先生たちにも、それが狙いだったのかもしれません。つまんないですもんね、たいがい、学校の作文で書くようなもんって。それに、会話文だと行変えもするので、行数も稼げる。

でも、学年が上がるにつれ、こんな、読む方にも面白い、便利なテクニックは、私の地域ではだんだんと見られなくなります。「おかやまっ子」で、ジャケンとかオエマーと、子供の稚拙な文章に味をつけていたスパイスは、中学生部の「岡山っ子」になると、いっきに存在を消します。それと同時進行しているのは、方言をやや疎ましく思う、方言地域で暮らす子の、自我のめばえ。

もしかしたら、その、方言を恥ずかしいと思ってしまう気持ちをを憂える先生たちが、かえって、よけいに、まだ恥ずかしいとか思っていない頃の小学生に、がんばって、方言を楽しむ、または認める根を植えつけようとしていたのかもしれません。


最後に、これはまったくのフィクションです。使った名前は私のいとこたちのですが、本人らには関係ありません。マコトにハゲはなかったし、従姉らは、田植えなどしたこともない都会っ子で、人が嫌うことをわざと言っていじめるような子どもではありませんでした。

でも、確かに、私は田植えをしたことがあります。そして、親戚の中で一人だけ、会うたびに私を「べっぴん」だと言ってくれる祖母がいました。

      

こうして、書き上げてしまってから気づくことが。

実在の人物の名や地名を使ってあることないこと書く、お話しづくり。子供の時に、母が、私がするのをかなり警戒して恐れていたことだった。封印されていたのに、とうとう、やってしまった。なんと、就学前に字を書くことを禁じられていたはずの、小学1年生の私の力を借りて。

母は、嫌がるだろうか。おそらく。これを目にすることがあればだが。でも、私はもう、母の禁忌もこわくない。母の願いを踏みにじることも。もう、私は母と同じ屋根の下には住んでいない。

そして、今の私は、知っている。口にはそんなことをほとんど出さない母が、小さい頃の私がオカアチャンと呼んでいたひとが、私を自慢に思っていてくれていることを。


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