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3645文字、平和を望む前に、論点を取り違えないよう押さえる必要があるだろう理解について

2023-4-005

例えば、ある文系概念を知ってるという事が、どの程度内実の確からしくない状態でその概念が用いられてるかを捉えてるところまで含めての話でないのは、
学力が高いとの位置づけにある人でも現状同じです(綺麗なイメージやそれへの反動反発で満足するのは、理念が有害な用いられ方をする原因だろうに)。


平和概念の例で言うと、奪い合い世界の外に出れてない状態込みで持ち出されてるとか、

奪い合い世界でない状態から乖離してはいるが表面上荒れてないの意味で疑似平和(場の本質でなく場の表層に合わせる文化における秩序もこれ)であろうと、
戦争状態における奪い合いよりは相対的に増しと見て次善の策的に持ち出す際に次善の策以上の扱い(過保護による過剰獲得)となるのを防ぐのに必要な、

余裕のない局面では成立自体を、余裕のある局面では成立の内実確からしさ(同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消)を重視する量質推移構造が不在のまま持ち出されてるとか、

帰属操作に付け込まれるこれら隙の把握は、高い学力得られるだけの余裕があるなら、
把握しない場合、隙を潰せる条件下にありながら潰さないでいると見なせる、
つまり、隙の保存に起因する帰属操作の責任が言えてしまうでしょうから、最低限必要と想像します。


さらに厳密には、受容に値する状態(ここに向かう変化は帰属修正なので帰属操作ではない、つまり、奪い合い世界での現象ではない)が、
内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
これらのみから成ってる帰属修正余地なさを意味してない(疑似な帰属修正余地なさを前提としてる為、修正に値する部分の取り出しに過不足が生じてる事態)とか、

有限性の代替不可能化(上の修正余地なさへと持ってく処理)が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(上の修正余地なさへと持っていった実存)をもって具体化されたもの、
という問題観や解決観の不在故に、問題の大小やジャンル、あるいは、理想に程遠い解決、といった表層形に過剰反応してしまったという内容を、

平和と戦争の関係が持ってる(日常のささやかな問題や解決と、戦争なり政治なりとが、
有限性の代替不可能化という抽象次元をもって繋がってない言わば、数を数えられないせいで林檎数えると蜜柑数えるとが断絶してる的事態)とか、


こうした事態の把握も必要でしょうから、厳密さには、抽象化具体化(個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象用いた、これらや内在性質外在性質把握)の不十分さへの敏感さが必須と言えて、

しかし、欧米文系含め文系学問は未だ、個別性が根拠になる局面に、同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいない
(存在するのと引き換えと言える要素が取り出されているいない)の観点を持ち込めてるとはとても言えない状態です

(下で言う潰す働きからも分かるように、具体化精度の低いものまで保存やまとめ上げの対象に含めてしまう認識枠組みは、
対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像に過ぎない理解や実力にいらぬ限界を与えてしまうのに)。


したがって、知的上層でも、文系事象の内実確からしさ程度まで含めて対象理解であるとされてない原因は、

通用の行き渡ってる状態を、理系的局面では同種の他との差異要素捨象用いた、文系的局面では同共通要素捨象用いた抽象化具体化
(限定作用の通用領域減に伴う確からしさ低減への、限定理由の確からしさ上限化による補填)によって達成してるしてないで肯定否定するパラダイムの不在であり、

哲学も、有限性の代替不可能化以外の部分(先の主体像への志向以外の、例えば、不可避な限定作用に対し逃げきれてる感を覚えたいだけな内容に過ぎない自由観)を疑似問題疑似解決扱いするどころか、

そのパラダイム不在に加担してきた(方法的懐疑や現象学に代表される表層拭うだけの実態主義が、
あるいは、通念的理性や形式論理学に代表される安易に個別性捨象する不当合理が、

割り振りについて場の疑似でない固有性に即してない点のみを、対真善美や対無限者の有り様について代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合してない点のみを、
修正対象とするパラダイムの登場余地に対し、潰す働きをしてきた)のであって、


このパラダイム不在の弊害に、奪い合い世界へと世界が矮小化されてる件もある

(例えば、資本主義下での需給成立に対し余裕あってなお、市場を実態主義的に扱いつつ数理的洗練を不当合理的に持ち込んでる側面が、上の意味での修正対象にされないとか、
日常生活でも余裕あってなお反応の過不足抑制に向かわず、隙あらば他責を図ったり、集団内や個人内での責任の大小部分差異を捨象したりで修正点が隠蔽されるとかがある)以上、

外界からのいらぬ負わされを避けたいなら、知性や倫理や美意識の既存権威によるものはじめ、文系空間の有り様を保全する力に、余裕ある限り与しない人を増やす必要があるわけで、

その為にも、局面と着目無視を一致させる事によって場に沿わない着目を捨象する態度
(帰属関係修正としての対差別なり、損得やできるできないといった表層形に対する過剰反応への対策なりに相当する)、

特に、表層形のみが問題になる局面の話を全面的に展開する飛躍が許容されないだけの、通用領域広狭への敏感さを、
自他に小学期から求めてく評価方針の事実上の標準化を目指しましょう。




注1

同種の他との共通要素捨象が機能してない状態で為される露呈作業は、表層の汚れを拭うだけ(内実にいらぬ飛躍があってもそのまま保存してる)に過ぎず、
拭い方が西洋的であれ東洋的であれ実態主義(生み出せる秩序も場の表層に合わせる類の域を出ない)であって、

不当合理への批判が、かこつけて実態主義を押し通す内容に留まってしまう点はじめ、知性や倫理や美意識の働きを縛ってきたものでもあると思います。


注2

綺麗なイメージで満足して現実を軽視するのも、揚げ足取りの部類で反論できてるつもりになるのも、
不可避な限定作用に対し逃げきれてる感を覚えたいだけな内容に過ぎない自由観の現れでないかと疑います。


注3

代替不可能な内外事情にしか応じない実存は、理想を割り引く程度を最小に抑える現実に相当し、
また、その実存には、フェアを越えてまで自他を助けなくて良いという態度も含まれる(外在場の本質に即した役回りしか引き受けない)ので、

解決がされてないとかできない事態への反応に、フェア志向であれば捨象されてるはずのものが含まれてるなら、

自己を具体化条件として主題を具体化する際の具体化精度が低い(主題の具体化に、例えば、成功や失敗といった表層形に、
内実の確からしさを持たせる事のできない、この意味で中身のない産物を自他や世界に負わせてきた)生を意味してると考えます。


注4

内実の確からしさ的には別物でも表層形が同じである事を利用して内実が確からしいものに偽装する、ドーピングによる金メダルパターンが、
可能な状況に与しない(対実存に限らず、知性や倫理や美意識を帰属修正として働かせてると言える必要条件)為には、

本文で言う推移構造を内包する、局面と着目無視との一致への志向(表層形自体に着目するかどうかも局面の疑似でない固有性次第なので、表層形が内実次元に先立つ事はない)が必要です。


割り振りについて場の疑似でない固有性に即してる状態、あるいは、自他の有り様について代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合してる状態から、
乖離してる部分以外込みで肯定してる過剰肯定も、乖離してない部分込みで否定する過剰否定も、その意味での偽装であり、

後者状態は前者状態を(したがって、過剰肯定でも過剰否定でもない対外界も)内包し、
前者状態は後者状態の達成に必要な、個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象(既存の文系空間に欠けてる要素)を、局面と着目無視との一致への志向の形で内包してる、
という関係構造が言えるでしょうから、


外界における受容に値しない部分に与しないだけでなく、そこから受ける影響を抑えたいなら、
外界の構築に働いてる知性や倫理や美意識の内、その関係構造を前提にできてるものの割合を高める必要があって

(この主題の具体化精度を上限化してくれるのも先に実存ですから、先の実存に至ってない段階で、
外界の有り様なり外界からの影響なりに文句を言うのは、自身に帰されるものまで他責に含めてる帰属操作と見なせますが、

内外境界の線引き失敗の話でもあるので、その帰属操作の責任のすべてが当人に帰されるわけでは現状、
有限性の代替不可能化以外の部分を疑似問題疑似解決扱いする働きとして哲学が機能してない為、
もちろん、哲学者の肩書を掲げてるならその限りではないものの、ありません)、


その邪魔をしてるのが既存のパラダイム(の下に立ち上がってる文系の学問や教育)であるのに、
哲学すらその保全に加担してきた、そう捉えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。