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2999文字、自由を理念として掲げる際(自由が理念として掲げられてるところに出くわした際)の注意点について

2024-3-005

記憶に関する障害の影響で過去の自分が置かれていた状況を現在の状況と取り違えてる状態に、一時的にでもなってる場合、
自身に課せられてる条件とそう思ってる条件の齟齬からくる支障や齟齬の反映された言動への対応を周りにいる人は負うわけで、

この場合は障害故の避けられない事態である(修正余地なさという受容条件を満たしてる)のに対して、
大した理由もないのに似た関係が生じるのは避けられるに越した事がないはずです。


過去情報(伝聞込み)から現在有り様の像を構成せざるを得ないという事実について、
その時点で判明してる数学をもって自然を説明する関係のようなものとして捉えると、
現在だけを取り出す発想はその避けられるに越した事がない事態に繋がるわけですが、

この現在過去関係は主観客観関係(客観性は一般に小学期を通して洗練されるように、客観情報は喪失問題に限らない)、
自己他者関係(デカルトカント関係で捉える場合はカントにおける人間形式の像に修正余地が有るのかが問題と思われ、


個人的には、例えば、都合の悪い事実に対する反応も事実は事実とする態度を採る採らないで異なるわけで、
事実を余計な意味付さずに取り扱う事も可能なのに、むしろ過剰反応を正当化する方向に全体を再構築するなど、

人間性である次元設定自在性に振り回されてしまう持ち腐れの原因は局面の固有性と着目無視の設定との齟齬であり、
現実事情をくまない内容の理性はこの齟齬を保存するとの理解から、有ると考えます)、自由平等関係にも拡張可能と思います。



この拡張を認めると、自由を理念として掲げたりなど根拠にする(帰属してるはずのものや帰属して良いはずのものが帰属してない事態を修正対象扱いする)のに先立って、
踏まえるべき平等(帰属しないはずのものが帰属してる事態への修正対象扱い)に実質を持たせる必要があるので、

存在するのと引き換えとは言えないものまで存在に帰属させてる有り様、例えば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(現象は内在性質と外在性質の統合物であり、存在も現象であると解せば、抽象化具体化交互反復は時間性を持たせたその拡張形である為、抽象化具体化の不十分さ解消状態でもあるこれ)を、

生きてきた結果ではない個別性が割り振り原理となって、内面世界での割り振りが展開された産物である感情であろうと、自分が自分である限り持たざるを得ないものかのように扱ってる事態に、
疑問を持たない人(内在不問外在軽視な典型自由観の採用者)が自由を理念扱いしていて、
そこに遭遇した上にその自由には中身がないと見なした人がいた場合、それは先の周りにいる人における大した理由がないケースと言えるはずです。



さらに、現在性なり主観性なり自己性なり自由性なりを純粋に取り出そうとする問題意識に限らず、
置かれてる場に通用させ続けるという存在課題が切り離されてる(大した理由なく生遂行に支障を来す方向に向かってる)ように見える問題意識や現象解釈は、

既に引き受けられてる存在課題を具体化する認識、帰属修正の働きを通してその認識に実質を与える知性倫理美意識、存在も認識も知性倫理美意識も検討し内実の確からしさを向上させる対象になる哲学、
これらの形骸化の現れとして疑う必要があると思いますし、存在課題の切り離しを抽象化の履き違えと見て、


個別性が根拠になる局面での、同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違えを抑える処理)を用いた抽象化具体化の不十分さに対する不備扱いが組み込まれてない理解力
(当然、この意味での不備を実存に関して修正する事もできない為代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、

救済や解決なら帰属関係が操作されてる内容の獲得でも肯定する立場、したがって、奪い合い世界の外に出るつもりのない立場を支持せずに、
場の疑似でない個別性に即した割り振りを支持する意味での、フェアを越えて自他を助けない方針、
ひいては、解決できない状態をその方針の下で受容する態度が含まれてるこれを、

存在課題に取り組む際の条件とする事によって、言い換えると、対存在課題の帰結を自分が自分である限りこうならざるを得ないものにしにいく、
人生を自己に帰属させる試みによって可能となる、課題への反応の肥大化抑制も期待できない)を、


文系者としては形骸状態(表層的な整合具合は評価できても、文系的修正余地を掴まえられないまま肯定否定する状態)にあると見なすところから文系空間を(現有り様への妄信、
糾弾を内実の確からしいものであろうとなかろうと確からしくないものとして扱う矮小化も辞さない積極的なケース含むこれに対して、

客船が氷山に向かってるのを知らない客的リスクの、ひいては、存在課題の放置として扱いつつ)再構築する立て直し
(個別性が根拠になるならないの違いこそあれ、帰属修正の対象を限定しない点では同じ、という文理関係の達成)が必要と考えます。


もちろん、そのように組み直された文系空間では、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様とを整合させながら得たものについては何であれ修正対象とはされないのに対して、
(既存の教育論やその反映環境を妄信した結果などにより)整合させないまま得た文系権威は権威がある程、

一流でない(対実存の時点で、文系事象に関する限定される前状態の準備と負わざる得ない限定条件の割り出しを評価する観点の不在からくる、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関という認識前提の不全、および、個別性に修正余地なさを持たせる原理の不在が言える為、


例えば、理想現実関係についても修正余地がないという受容せざるを得ない状態へと持っていく事ができず、理想を過剰に割り引く疑似解決や現実を過剰に割り引く疑似問題が避けられない、
さらには、人なり社会なりの歴史展開に対する評価が、ある時点での修正余地ない理想現実関係を点として紡いでる状態からの乖離具合とは関係ないので、

過去における振る舞いの一種であるところのテキストについても評価が過剰擁護か過剰糾弾になってしまうなど、
帰属修正の対象に関するいらぬ限定性が、防げる類の井の中の蛙的事態を引き起こしてる)のに、

そうであるかのように扱わせる茶番(ドーピングによる金メダル的事態)のごとき扱いを受けるでしょうから、
人生が自分に帰属しない内容(帰属修正に先立つものを持たないとの意味で形骸化してない知性倫理美意識であれば肯定しない内容)の自由に権威が付されてまき散らされる展開もないはずです。


受容条件が提示された場合にそれが、受容に値する状態(否定すると過剰要求となり、
疑似問題を意味する状態)にまで持っていってない都合を押し付けたり押し付けられたりする状況、ひいては、奪い合い世界に繋がってないと言える為には、
引き受けてる内外事情が修正余地を持ってるケースに対し、受容条件を持たしてないものとして扱う内容である必要がある為、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存(と整合的な獲得喪失有り様)に対し否定的反応を示す人が採用してる受容条件は、
奪い合わない世界でなく奪い合う世界の方と整合的であって、その種の人が示す肯定否定反応
(肯定も否定も上で見た認識前提に依拠してるので、認識前提不全の産物)を真に受けてる限り、上で言う状況の外には出られないと捉えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。