無題0

悪意がないだけでは不十分と認めるとして、現実が持ってる複雑さとの間を詰めるテコ入れ(既存の人道系概念に組み込むべきもの)を考える

2020-1-001
悪意の有無に関するスレへの投稿内容:


奪ってまで欲を満たそうとするタイプではたとえなかったとしても、
世の割り振りを妥当なものにする働きかけが、条件上の最大限(フェアを越えては助けない)でないなら、
自分が何かを奪ってる形という事態に対し、少なくとも安易であるとは言えるはずです。
恵まれてる事に感謝してる場合は、奪って得た部分の責任を感謝の相手に擦り付けてる形でもあります。
攻撃性を、そのフェア化(アンフェアが否定対象で、否定の具体化に際するアンフェアも対象)と無関係に、
肯定否定するのは表層的な満足を意味してしまうわけです。

寛容でない者への非寛容が、善や正義を志向していてさえ有害なものとなるのも、
その場その場の代替不可能な性質(問われるべき事)に即した扱い(損得や役回りの割り振り)への支持を、
フェアと規定した上での、割り振りのフェア化が目的でないからと捉えましょう。
人権も、フェア主体とアンフェア主体を区分けせず保障する近代的権利観の下にある限り、
(デカルトやホッブズによって明晰化された、その流れで内外分離に主眼を置く主体像の下にある限り、)
その保障を目的とする強制力は、アンフェア有り様の保存を許すなど、有害なものになり得るわけです。

そして恐らく、人道系の概念はキリスト教における理論上の問題とも絡んでるはずです。
与える者と求める者の関係における改心せず求め続ける者(強者であれ弱者であれ)の存在や、
(存在意義に関わる博愛精神の下でのその存在可能性は、事実上の奴隷化を、内包する理論である事、
つまり、現実次第では社会の健全化を導けない事を意味し、そこを解決せずに、
社会の不健全さによる苦しみを慈善等の対症療法的にしか解決しない者が救済に値するのか疑問)
裏切者の発生可能性への対策欠いた非武装平和の推進は、無抵抗に奪われ支配される事態の推進でもある為、
裏切りは非攻撃性の推奨に際し否定すべきを、ユダ解釈が示すように単純には否定できない事情への、
彼らの対応は罪源にせよ、少なくともフェア(上の意味)化ではなかったわけで、
現実が持ってる複雑さと彼らが持ってるロジックとの間を詰めるテコ入れないままに起きた、
価値の普遍化に、善悪のイメージが人類規模で振り回されてる形です。

(個人や国家権威から宗教性を剥ぎ取り、人権主権で現実を回せる状況に道を開いたデカルトやホッブズも、
フェア化に依らない以上、あくまでキリスト教の中世的変容を解消したに過ぎず、
付け込まれる隙を持つなど、開いてる現実の複雑さとの間を詰める上で不十分であったと見るべきです。)

逆に言うと、(己含め)フェアを越えては助けないとの倫理的態度を、愛概念に質保障として組み込む、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力を、管理者概念に要件として組み込む、
問われるべき事と捨象の合致配慮による次元設定自在性の制御を、人間性概念に論点として組み込む、
そうしたテコ入れが、
何の確からしさ(通用領域の広狭)が問われてるのかとの問いに生じる偏りを最小化、代替不可能化する、
という不当な扱い発生阻止における本来的論点を、
阻害してる既存主体像や通念的善悪枠組み(形骸善意含む)への対策の一環として、不可欠と想像されます。

ご支援の程よろしくお願い致します。