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4211文字、自由概念や責任概念についての再考、文系空間がどういう意味でぬるいと言えるのかにも触れて

2024-2-004

自由意志への疑念や責任帰属への疑念は、現象を内外性質統合(抽象物と具体化条件の総合)として見る現象観の不在からくる疑似問題でないかと疑います。
生遂行を状況に即しているいないの観点から評価し、評価結果を仮説でしかない行動原理にフィードバックする機構が、
人間の場合、局面レベルで注力できるだけの次元設定自在性を持ってるだけの話と見て、

人間にとっての自由や責任に対しては、呼吸の時点でそうであるように生は問題解決の集積である、
姿勢制御の時点でそうであるように状況把握は無意識レベルでも展開されてる、
注力的問題解決(意識)の結果は無意識の有り様にフィードバックされ、人間は次元設定自在性の下で注力できる、

存在有り様は置かれてる場に通用させ続けるという存在課題の下で変遷し、生遂行は既に展開されていて我々はその具体化精度を上げ下げできるだけである、
こうした要素の構成物として位置付けてしまうべきでないかと考えます。


代替不可能な内外事情にしか応じない実存を自他に求める事(表層形を受容条件にするから、茶番選抜のような内実の確からしくないものを通してしまう知性倫理美意識に疑問を持たなくなるわけで、
修正余地なさを受容条件とする事によって表層形の優劣具合への過大反応過小反応を疑似問題として捨象してしまうよう求める事)が、

平等に対してできる事の上限(課せられてる条件の違いによらず、主体有り様に、
ひいては、優勢劣勢有り様に修正余地なさを求める、という主題の具体化条件に修正余地なさを持たせてる状態)であり、

世界に対してできる事の上限(受容に値しないものを負わされるものがいない世界への接近、という主題の具体化条件に修正余地なさを持たせてる状態)でもあるので、
自身の生遂行や自身にとって価値のあるものが置かれる場を、受容に値しないものを負わせてこない状態に近づける意味での解放は当然、先の現象観が前提です。


一方、自身に帰属してるはずのものが帰属してない感や、自身に帰属してないはずのものが帰属してる(受容に値しないものを負わされてる)感は、
先立つあるべき帰属関係像に修正余地があるのなら茶番選抜であって、この茶番選抜性を保存してしまうのが、
内在不問外在軽視な典型自由観であり、個別性捨象だけから成る典型理性観です。

例えば、ある振る舞いが社会によって裁かれた(実際問題、競争的というだけでも、協調的というだけでも裁かれ得る)という現象は、内面世界における感情選抜と、
実際に用いられた割り振り原理が場の疑似でない個別性から乖離してるほど茶番である点も含めて、同じ構造であり

(認識は既に引き受けられてる存在課題を具体化するものである為、覚えた感情への茶番選抜性込みでの肯定反応も、茶番選抜性以外込みでの否定反応も、
対象位置づけの正確性上限化を損なってる以上、存在課題の疑似問題化ではある)、


感情等の内在場の産物における茶番性除去(疑似化状態からの場の個別性の解放)が、
局面に合わせた加工作用の意味での理性(局面次第では個別性捨象が要請される事もあるだけ)に関する具体化精度の上限化
(AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない能力を用いた対局面)による、

変遷現象(使われ具合によって言葉の意味合いやニュアンスが変わる的話)への、
抽象次元の通用性向上(仮説改善に必要なだけの検証精度に相当する具体化精度の達成)の側面の導入をもって果たされるのに対して、

何らかの社会という外在場の場合は、個別性を疑似化状態から解放した主体(典型自由観はこれへの接近を阻害する)だけで社会の性質を構成する必要がある
(場の性質を損なわないように秩序を構築する側面だけが精度を上げても、ドーピング選手が勝ったレースのタイム測定が精密です的な、茶番選抜の下での表層洗練が達成されるに過ぎない)というだけです。



ところで、感情を加工する事なく表出したという場合、先の現象観の下では、それが可能な局面だったかそう勘違いしただけとの解釈に、
つまり、加工が0だろうと100だろうと、そうした表層次元に関係なく、局面に合わせるという加工はあるとの理解になりますが(A=Aを、抽象物と具体化結果の関係として見てる)、

この加工観の不在は、限定を受ける前状態の準備と負わざるを得ない限定条件の割り出し、
この両者の上限化から成る為に、個別性が根拠になる局面では典型自由観や典型理性観とバッティングする加工原理の不在と合わせて、

プラトン時点で理想と現実の関係をどうするかが問題になってるのに、その答えが少なくとも文系域では抽象化具体化不十分さ解消ではない点にまで遡りますから、
結局、自由概念や責任概念の疑似問題化も、先の能力の欠如と表裏である、対文系事象における具体化精度への鈍感さの現れ


(疑似問題に陥らないだけの準備をせずに取り組み、つまり、通用してる領域の広狭と確からしさの相関、
肯定も否定も保留も依拠してるそれを、個別性が根拠になる局面で個別性に対して見ないという、
先の能力を欠く事で生じる聖域に相当する、帰属修正の及ばない領域持つ知性倫理美意識頼りで取り組み、いらぬ対立まで生み出す有害性の事例)に思われます。



例えば、感情と理性の上下論がいらぬ対立と言えるのは、先の能力を局面の個別性把握に用いているいないの差異、
感情においては、主体の個別性(仮説でしかないので、何が本質かというよりも、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の除去程度が論点になるこれ)が、
仮説改善(これを可能にするだけの精度を持つ検証として、局面に自身を合わせる具体化処理がある生)な歴史を経たものであるか否かの差異として現れ、

理性においては、次元設定自在性を人間性として解した時の、局面と設定次元との間の齟齬を解消できてる(人間形式に振り回されてない)状態と、
自身の形式に振り回され持ち腐れさせてる(場の性質を損なわないように着目無視有り様という形式を構築できる具体化精度確保の能力を生かせてない)状態との差異として現れるそれを埋没させる

(現象を内外性質統合として見た時の、例えば、実存が両性質の代替不可能化の結果としてあるなら解決状態、
ないなら問題状態と見なす立場にとっての解決阻害に当たる)枠組みであるからです。


例えば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させる事により、獲得喪失有り様
(役回り振り分け込み)に修正余地なさを持たせる獲得観をもっては展開されてない点で、これまでの教育も、これまでの資本主義も同じですし、

ドーピング選手が勝ったレースのタイム測定が精密です的な、茶番選抜の下での表層洗練である点で、
対文系事象での理解力の既存イメージ(特に、文系的な文章や思考から茶番選抜を取り出さないし取り出せない内容であるそれ)も、高度化した資本主義から成る秩序も同じです。


にもかかわらず、既存教育の価値観と整合的な知性倫理美意識をもって資本主義が批判されていたならそれは、
問題状態に対する先の能力の欠落(欧米文系を有り難がってる時点でこれが言えてしまう)からくる抽象度不足のまま、
個々の問題に取り組んだ結果のいらぬ対立(先の能力をケアしない既存教育の弊害)と見なせます。

(対格差にしても、実際に生じてる格差に対する、上の獲得観の持ち主だけから成る社会で生じてる格差込みな否定はポジションへの過大反応であり、以外も込みな肯定はポジションへの過小反応であって、
帰属修正を先立たせる方向への獲得観の修正機会を潰し、場の性質と着目無視との間に齟齬がある下での扱いという意味での不当な扱いを保存する疑似問題と言えるこれらが見られるなら、

たまたま近くに座ってたので醤油なり胡椒なりを取ってあげたとか、助けてもらう立場の赤ちゃんとして生まれた後、助ける立場、さらにまた助けてもらう立場に移行するといった話と同等の、
役回り振り分け事象として抽象化しつつ、割り振りと場の性質との間の齟齬解消、
解決への肥大化した志向が自己や他者に向かうのを防ぐのに必要な、利己利他対立の軽視とフェアを越えてまで自他を助けない方針、これらを機能させるのにも必要なそれは期待できません。)


こうしたいらぬ対立を知性倫理美意識の権威がまき散らしていたり、(例えば、分かり合えなさに対する、先の獲得観の持ち主だけから成る社会で生じてるものも込みな過剰否定を)放置していて、
かつ、その知性倫理美意識の不十分さを指摘されない、あるいは、指摘されても修正しない上に影響力も保ち続けるのであれば、これは文系空間がぬるい証拠であり、

この証拠に溢れてる現状は、文系空間と世界の有り様(世界の内に置かれてるものが受ける扱い)との関係を踏まえれば、
ぬるくなさの上限(権威から茶番性を除去できる上限)の下で権威が機能する方向に向けた修正が必要と言えるはずです。


主体の個別性について、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の除去程度を論点にしない場合、
人生を通して生じる、井の中の蛙的状態の緩和に伴う再位置づけや構造再編に関して、

個々具体の分断による特定事例への過大評価、変化へのケア不足による既存枠組みへの過剰依存、
こうした具体次元立脚の弊害(井の中の蛙的状態の緩和が井の中の蛙化してる事態)の発生が、

抽象次元(数を数えられる事で可能になる、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的状態)への移行に、
障害故に難があると思しき人達に見られる同種の困難(林檎は数えられるのに蜜柑はできない的個々具体の連関不全、まだ見ぬもの的他可能性へのケア不全)から類推可能と思います。


また、この緩和には、災害経験や戦争経験のような規模(抽象次元立脚による過大評価削ぎ落しでの影響抑制の対象)から、
頭の中のものを見える形にするといった程度の規模(整合不足の発見容易化による洗練効果の対象)まであって、

後者の事例に関しては、言語の獲得前後を、外在的問題解決スタイルである文化の反映方向への差異の洗練化前後
(獲得前でも差異把握自体はある)として捉え直す事で過剰対比(いらぬ対立)を削ぐ類推に繋がる、

ひいては、幼児期の構造再編に比重を置き過ぎる(井の中の蛙化してる)理論や、
その拡張である秩序観を真に受けないで済む状態に繋がるのでないかと期待します。

ご支援の程よろしくお願い致します。