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通念的自由観が文系での理解力の低さを意味する理由について、表層的解釈を知的権威付きで安易に世に流す文系者が減る事を願って(3,369文字)

2020-7-005

理解は対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感でしかなく、一種の仮説であって、
表層的な理解(現実の複雑さに通用してない理解)しか持てない人なり持ててない学問状態なりは、
具体形パターンの網羅程度が低い、抽象化具体化の精度が低い、この二点が原因と思われますから、

理系的局面では同種の他との差異要素の捨象を用いた抽象化具体化が、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化や具体化が採られる事で、精度最大化が可能になるとすると、

後者捨象を埋没させる近代パラダイム、今なお支配的なそれが、文系知性や倫理を機能させる(帰属の修正作用としての働きの)為のネックと言えます。



誰もが通用領域の広い気がする方を選んでるわけですが、近代パラダイム下での文系領域では、
今何の差異が問われているかについてが後者捨象(それ自身に帰属してないものを帰属してるものとして扱ってる可能性をできるだけ潰す処理)の帰結でないのに着目無視の設定になり得てしまう為に、

今問われるべき差異を取り違えたまま通用領域判定を下してしまって、それ(理解が表層的である事による冤罪的批判や疑似問題)を修正できない人が知的上層を構成する事にもなるわけです。


例えば、フェアを場の疑似でない固有性と着目無視との合致状態と見なせば、
アンフェアに開かれてる状態を自由と捉える自由観(内在不問外在軽視とか、単なる割り引かれ忌避とか、よくある、しかし近代パラダイムで強化されてる自由観)は、

帰属の修正(帰属関係としての仮説を確からしいものにする働き)でなく、帰属の操作という逆方向に倫理を見てる形なので、
その自由観を持ってたり、それに特段疑問を持たない知的上層の存在は、文系知性や倫理が機能してない社会なり時代なりの証拠であって

(具体化精度の低さを意味する事からアンフェアを、改悪フィードバックと見た、
つまり、アンフェアに対し抽象次元の通用領域減という不自由を見た、フェアを越えない内容の自由への志向を持たないのに、
自分は文系事象に関する仮説をより確からしいものにする能力が十分に高いし、今持ってる仮説もその能力の帰結であると思ってるのならば、それは、
林檎は数えられないのに蜜柑は十全に数えられると言い張ってる的な、誤解状態と見なせます)、


対内在や対外在で応じる性質(受けるのを許す影響)について、後者捨象(それがそれである限り引き受けざるを得ないものを取り出す処理)に十分さらす事で、
振る舞いを自己存在や外在存在に即してる方向へと持ってく有り様を、主体に求めない知的上層の存在に関しても同じでしょう。


(そもそも有限者の対象認識からして加工済みですが、
嘘や演出も、場の疑似でない固有性に即した加工としてのものであるのなら、上の意味でのフェアと整合的であり、
フェアの要求は具体化条件の疑似化、つまり、具体化精度を、加工の過不足を問題にしていて、疑似化自体を否定してるわけではないのに、

加工可能性を担保すべくアンフェアに、帰属の操作に開く事を、加工の過不足を修正できない事態と引き換えの形であるのに、望んでしまうのだとしたら、それは、
パラダイム故に、文系的局面での具体化精度差のような、内実の確からしさ差を掴まえられない近代人的反応と言えるように思われますし、

知性や倫理が本分とは逆方向で持ち出される原因として、近代パラダイムがある一例のように思われます。


知性や倫理の働きが本分とは逆方向に引きずられ、自身も表層形での断罪に組みしてしまう展開をできるだけ抑えるべく、
知的上層含む、内実を確からしくする働きを持たないし、それが持たれてない事に疑問を持たないという意味で、近代パラダイムな文系者の言動に、付き合うのを必要最小限に抑えましょう。)



例えば、目的に合わせるとか役に立つとかに対し、その過程で何かが削ぎ落される事をもって反転形の方を支持する(割り引かれない為に、奪われない為に)言説
(仮に感情が削ぎ落されてるとして、感情について内面場の割り振り原理が可能なだけ代替不可能化されたものかどうかとの論点もないそれ)を、

知的上層が(知的権威を付しつつ)通そうとしていて、実際、文系空間で通ってしまってるのだとしたら、


場に合わせると合わさないの二択枠組みに話を矮小化するという、表層的理解の典型を、全体主義批判によるリバタリアン擁護のパターンで展開してるだけの産物に対して、
取り合うだけの価値があると場が見なしてる形ですから、

その文系空間における割り振り原理は、確からしさ差に相当する差異を取り違えている、
結果、割り振りに内実の確からしさを持たせる事ができず、表層的理解に、表層的なものというポジションを割り振る事に失敗してる(知的権威の形骸化も許してる)のだと思います。


価値は場が決める事であり、場の性質(場が求める着目無視の有り様)は無数に有って(変化しさえする)、
有限者による対象認識からして認識場による加工(偏りの反映)が不可避であるわけで、
場に合わせる合わさないという枠組み(合わせる事で何かが失われる事自体を気にする)は疑似問題に過ぎず、

場の疑似でない固有性(それ自身に帰属してないものを帰属してるものとして扱ってる可能性をできるだけ潰す処理を経た固有性)に合わせているいない、
という問題枠組み(合わせた結果に生じる事が、引き受けざるを得なさに帰属してるかどうかを気にする)があるだけ
(この場では偶々こういう割り振りになる、という話に上で言う処理でもって実質が与えられてるかどうかの問題があるだけ)と捉えるべきです。


平等論が、後者枠組みを論点(場の本質の下の平等を目指す帰属の修正)としてないせいで、
各場の性質を尊重しない類の平等達成を強いる帰属操作的な平等論が、知的空間ですらのさばってきたのと同じパターンを、
対自由で繰り返さない(内在不問外在軽視は、内在場の疑似でない割り振り原理を埋没させてるものが外在場に越境してる形)為にも、

前者枠組み(近代パラダイムのままの思考様式)な言説に付き合うのを、たとえ知的上層からの発信であろうと控えましょう。




注、

例えば、10秒前の自分、5秒前の自分、1秒前の自分と、それらの抽象としての自分との間に具体と抽象の行き来があって、
抽象具体の行き来(歴史性)には、仮説と検証の行き来のような、確からしさ向上の側面と、
言葉の意味合いやニュアンスの変遷のような、場(具体化条件)での割り振りの反映でしかなく確からしさ向上とは言えない類の側面があるイメージです。

いずれにせよ、抽象化具体化の精度が低ければ、有限の与件性の下での通用の行き渡ってる状態、という意味での選ぶに値する状態は達成されない、と考えてるわけです。


林檎を数えられないのに蜜柑を十全に数える事ができると言い張ってる的形、
テスト中という条件下では結局思出せなかったのに家では暗記できてるつもりだった的形、

文系的局面でこういう事態(表層的な対象理解)をできるだけ抑えたり(つまり、抽象化具体化の精度を最大化したり)、
対象に見出す(抽象化具体化の不足を見逃さず、偽装されてる形の引き受けざるを得なさに対し、付き合わない、あるいは、通さない空間に組みする)のに、

少なくとも、同種の他との共通要素の捨象の能力(内実を確からしくする働き)が必要だとも考えてるわけです。


自身の固有性なり、場の固有性なりに対しその能力を十分に展開できない(上で言う働きを持たない近代パラダイムの下での対文系である)のに、
変えられるものと変えられないもの(引き受けざるを得ないもの、存在する以上外界に負わさざるを得ないもの)の分別を、
文系事象に関して捉えるのは表層的解釈にしかならないと思います。



(例えば、主体や場の)内実の確からしさ差異を無視したまま為される肯定否定は、
結局のところ、ご都合主義(負わされるに値しない限定通用的な都合の反映)であって、

そこに見られる、都合の限定通用状態を修正しない様から、仮説の限定通用状態の修正も、通用領域最大化の原理不在故に、少なくとも高精度では期待できない人
(対象理解も表層的で、知的権威を付すに厳格には値しない水準なままの人)である事の十分な証拠になると考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。