無題0

近代科学や科学的見方を相対化する際に押さえるべき事への考察と絡めた、別掲の本文の注釈

2020-1-003'(003の注釈)

本文を上から順に、
リアクションの話、有り様規定の話、次元設定の話、現象把握の話、
前半二つが道徳の話、後半二つが哲学の話と捉えるとして、

本文は前半も後半も、
形式着眼(対群)と帰結着眼(対個体)から成り、
それぞれで陥ってる、
大騒ぎか見て見ぬ振りの二択に留まってる(場の性質に合わせた自然なリアクションという両者否定の選択肢が実質ない)状態と、
場に合わさない絶対性か場に合わせる際の対象を代替不可能な固有性に限定しない相対性の二択に留まってる(場の本質に合わせるという両者否定の選択肢が実質ない)状態から、
脱却する必要がある、
という内容であるように思います。

なので、
場の本質に即した扱われ方に対する遠ざからない態度(前半)か持ってく働き(後半)かによらず、
端的には、倫理か知性かによらず、
場の本質に即した扱われ方をもって影響を律する事が求められてる、
それが全体に対して言える結論ではないかと期待します。


ところで、
欧米の横暴には、
例えば、欧米的な倫理についてその確からしさを疑う事なく、
日本などに押し付ける、断罪の根拠とするケースが今なお見られるわけですが、
そのケースは反省の対象にすらなってない状況と言えるので、
上の文章における、働いた横暴に対する欧米の反省の例には当たらないと思われます。

一方で、
反省はあるけれど反動的内容と言えるのが、
文化人類学による欧米の相対化の試みと思います。
文化の差異の間の優劣差を無化する試みも、
科学的な見方とそうでない見方との間の優劣関係を解体する試みも、
本文で言う枠組み採用(大騒ぎか見て見ぬ振りかの二択の脱却)を内容としてないからです。

もし、
ニーチェのキリスト教批判が、問題点の取り違えを把握した上で踏まえられていたなら、
人類学の現在進行で続いてるその失敗は無かった、
人類学はニーチェの有名な仕事の一つを生かせずそこで批判されてる事象を繰り返してる、
そう言えるわけなので、
少なくともこの点に関して、ニーチェは今なお意義を有してると見なせるはずです。

(もちろん、実存主義的である限り、
数を数えるという抽象次元を放棄してるのに、林檎を数える事ができてるつもりになってる的限界は免れません。
実存主義的動性を有限性や現前性の観点で捉え直す等、中身をいじったところで解決しないのは、
それを、現象学におけるデカルト的懐疑に、
つまり、内外分離の域を出ない明晰化に差し替えるハイデガーの試みが頓挫した形である事により、
十分示されてるように思います。)


また、
科学的な見方の相対化に関しては、
本文における哲学の話を、学問の話にそのまま置き換えて理解する必要が、厳密にはあると思われます。

着目する差異(価値)は場が決める事であり、差異の掴まえ方の肯定否定は、
内面世界や自国社会や国際社会も無数の局面も場と見た、場の代替不可能な固有性の正確把握が論点である、
という差異観と整合的な問題意識(大騒ぎか見て見ぬ振りの二択からの脱却)から成る枠組みの不在。

内在の性質と外在の性質が合わさって現象と成り、
両性質の代替不可能化(場に置かれる前後の関係正常化)の程度が現象の確からしさに相当する、
という現象観と整合的な問題意識(場に合わさない絶対性とその反動の二択からの脱却)から成る枠組みの不在。

ガリレオ等による科学の明晰化以前から有るこれらの問題が、以降にも保存されてる事の理解が、
科学的な見方なりその帰結の体系の現有り様を、
欧米による過剰に歪んだ加工の産物として捉えるのに必要と思うからです。

例えば、物理学は観測機器の高度化を待ってる(仮説と実証という抽象具体間行き来に必要)といった話も、
これ以上進めなかったという限界境界の再検討という意味で、能力の有限性の代替不可能化です。
理想を犠牲にする程度を条件上の最小に抑えつつ現実を成り立たせるという、
理想と現実の安易でない関係性を、認識に際する避けられない加工に関して問うてるわけで、
それを科学の不完全性(絶対性の否定)といった捉え方をするのは、上の現象観の不在によると思われます。

また、政治や経済や芸術で、不確定なものをそれが置かれる場(局面事情)に合わせて確定的に扱ったり、
何らかの形を与えたりする際も、踏まえるべき構造は同じですし、
実在非実在の確定や真偽判定(論理に対する理解)さえも同構造で捉えるべきと思われますが、
現状そうなってません。

つまり、学問自体がまともな抽象化を受けておらず、
抽象と具体の確からしい関係構造から成ってないと言え、その上、
特定の次元設定(同種の他との差異要素の捨象)の下での、現象把握の帰結の体系化でしかないものへの、
越境的な位置付けまで生じていたけれども、
先の不在への理解と不在解消への働きかけで修正は十分可能と期待します。

ご支援の程よろしくお願い致します。