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3480文字、既存の文系権威の推奨物に惑わされない為に押さえるべき点について

2023-9-005

代替不可能な内外事情(端的には内面局面、資質環境)にしか応じない実存でないと、
理想ポジション(真善美や無限者)との対峙が、防げる類の割り引きを持ったままな理想現実関係になってしまい、
生じてる非尊重の分だけ、知性倫理美意識や信仰が形骸化してしまう(この理解を押さえる事は、
理想現実関係が安易かどうかと向き合ってない体系を、正当化してくる力に抗する上で必須)と考えますが、


この実存(を生きた結果の有限性形態)を、
有限性(内外境界自体である為、有無や肯定否定の、ひいては、存在や論理法則の前提)と、
無限性(通用が行き渡ってる事態そのもの、より確からしいものが取って代わる運動性)との阻害ない統合体の一種として捉えると



(有と無が完全一致でない時点で有限性は生じてると解せば、有と無の差異に関する疑問よりも先には遡れないとの想定は、宇宙についての有限性スタート説に相当すると思われ、

有限性スタートなのか無限性スタートなのかという疑問を踏まえて、無限性が有限性に先立つ構造、
有限性の登場理由も包含し、この先立ちや包含をもって創造者を想定する宗教観とも整合可能になるだろうそれがあるとするなら、

仮説改善を内容とする抽象化具体化交互反復の、無限性有限性交互反復版がそれであり、
改善改悪の差異の一種としてあるのが、上の実存での対峙であるかないか、という具体化精度差異であると期待してます)、



例えば、自分にはこれ以上は無理といった類の主張をするのでも、自身についての内外境界線の確からしさ上限化が意味されるその実存を生きてないなら、
その主張に内実確からしさを持たせる事はできない(形骸な主張しかできない)わけです。

つまり、その実存を生きてない(特化の過不足を避けてる具体化精度重視な生を生きてない以上、
抽象化具体化の不十分さ解消をもって解決と見る場合、解決原理を持ってない証拠)なら、
必ず特化に過不足(確からしさの上限化されてる内外境界線から見て、越えてるか手前に留まってるか)が生じてるので、


たとえ本人的には深刻に悩んでいるのであろうと、たとえ何らかへの注力具合に自負を持ってようと、
確からしい内外境界線を越えたものまで自身に帰属させようとする、自己に対する過剰救済

(場の疑似でない個別性に即した体系まで否定するが故にニヒリズムは、フェアを越えてまで自己を助ける態度の内、特化不足によって救済が具体化精度確保に先立ってる事態と言える為、
取り合う価値があるかのような言動を見せた時点で先の証拠)が内容の帰属操作に他ならず、

いらぬ特化という内実確からしくない部分を積み上げてるだけと見なせますし、
その実存な生を推奨せずに何らかへの特化を働きかけるのは、中身のないものの積み上げへと誘導してる形と見なせるはずです。



局面次第でしかないものを局面との整合具合とは無関係に肯定否定する姿(例えば、本筋から見た次善の策も含め、加工について、
局面に合わさない絶対主義的に語ったり、局面の性質把握や変化把握に疑似化除去を付さない相対主義的に語ったりなど、
限定前後関係に対し具体化精度確保の観点を欠いた結果の安易な理想現実関係の体系提示)が見られたなら、

その人には、場とズレてる言動でも肯定してもらえるぬるい環境に置かれ、かつ、その環境に自身が特化してしまう事に疑問を持たなかった生が疑えますが、


現象からどの側面を切り出してくるかについて、局面に合わせる精度が低い(ドーピングによる金メダル的な選抜は実際に取り上げる差異の設定失敗なわけで、
これと変わらない)ほど、意味把握や原理抽出の不十分さが示唆される以上、

自身の知性倫理美意識をより良く機能させる為には、上の姿が自己に見られた場合は自己に修正余地(特に、冒頭の実存とのズレ)を見、
また、権威に見られた場合はその不十分さにまで付き合わないですむだけの距離を取る必要がある

(そもそも、個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象を、基礎扱いせず、
機能させられないままでも権威になれるし、権威を誇れる文系空間の現状では、権威は内実確からしさの保証を意味しないと解するべきで、
権威に上の姿が見られるのも、ぬるい環境とそこへの特化に対する糾弾の不在なり、矮小化可能状況なりが続いてる帰結)と考えます。



注1

例えば、ある常識に対する肯定否定の理由が、上手く現実が回ってる(流れてる)から問題ないとか、真理との間に距離が生じてるから駄目とかである場合、
その理由は、割り引きの過不足を保存する安易な理想現実関係(有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
少なくともこのどちらかの受容に阻害があるそれ)が前提になってるのに対し、

現在の特定時空性に即しているいないの差異である場合、そこでの肯定否定は、
特定時空性を可能なだけ剥いだ上で引き受けざる得ない時空性を付し直したものと、実際の有り様とのズレを取り出せなければ成り立たないので、
その理由の前提には、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さが解消されてる状態への、その時点での解決状態扱いがあると言えます。


冒頭の実存(この実存を具体化条件としつつ、取り組む具体的問題を問題状態という抽象像から切り出す事で、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在が、自己との遠近に関して問題解決に生じるのを防ぐ、

したがって、対象を疑似解決に追い込んでるのに対象を大切にしてるつもりな形となるのを抑える処理は、上の付し直しと同じ構造である上に、
特定時空性の内の人による部分の引き受けざる得なさを、ひいては、特定時空性と整合的な諸々の正当性を上げるには、社会におけるこの実存の占める割合を高める必要がある)も、


後者的な肯定条件を満たしてる状態なので、ニヒリズムに取り合うだけの価値があるかのごとき言動を見せたとか、
文系事象に対する後者的理由におけるズレを掴まえない類の対象理解しか扱わない既存の文系教育や文系学問

(つまり、現象を内在性質と外在性質の統合体として捉え直した際の両性質への上の捨象が十分でない有り様であっても修正し切れない、
特に、主語からの述語切り出しなり、概念の通念的内容なり、対言語では同種の他との差異要素捨象に特化した論理観によって、
哲学レベルから修正能力を奪いさえする体系)に対する距離取りを、余裕あってなおしてないとか、

そうした具体化精度確保を先立たせてない証拠(ひいては、安易な理想現実関係の前提化の証拠)をもって、
個人有り様や社会有り様への言及(権威の有無によらない)に含まれてる肯定否定成分に、内実確からしさの欠如(形骸性)を見ましょう。



注2

何かが在るというだけでそこには、置かれてる場に通用させ続けてるという事態があって、
その事態は、置かれてる場の性質を具体化条件とする抽象化具体化交互反復(同一性と変化の同時達成)を内容にしていて、

文系事象的には、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さない時、その事態には表面上どう見えようが修正余地はない
(当然、不十分さがある限り、表面上どう見えようが修正余地はある為、権威者であろうと、
その不十分さの有無を掴まえられない状態にある人の為す受容に値するしないの判断には、取り合うだけの内実確からしさはない)。


主語の切り出しも、主語からの述語の切り出しも、主語述語関係からの意味の切り出しも、
文脈を具体化条件とする具体化の処理で、自然言語では、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さがない時、仮説でしかない具体化物はその時点での修正余地を持たない

(仮説の中身が不確定でも余裕がない局面である為に次善の策として決めつける事もあるだろうし、余裕の発生に合わせてそれを緩和する事もある)。


このように解せば、歴史的観点も論理的観点も同じ構造(ある種の不十分さが確からしさ向上の余地として、我々には与えられ得るだけとの態度)で扱えるのでないかと思います。
(現象学系や既存の直観系は、認識場の性質が、冒頭の実存を生きた結果の産物であるかどうかを、

言い換えるなら、特化の過不足という安易な限定前後関係、理想現実関係を排してきた結果の産物であるかどうかを、問わないという意味で質不問なので、
不問によってスルーされてる性質疑似化分だけ、ドーピングによる金メダル的な帰属操作となってる選抜としてしか、
上の切り出し群を認識場の上に立ち上げられない体系であると解しましょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。