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外国の古い寓話②

・・・<昨日の続き>
通りがかりの男は帰ろうとしたとき最後に、「本当にここで落としたんですよね。歩いている途中で落としたってこと等はないですか?」と聞いてみた。するとうずくまった涙目の男は初めて顔を上げて、「いえね、本当は向こうで落としたんですが、向こうは暗いんで、街灯のあるこちらの明るい所で探しているんですよ」と言った。ここで話は終わりとなる。

まず誰でも分かるのは、愚かなる者の笑い話だろう。
向こうで落としたのに、何の関係もないこちらで探しても見つかるはずがない。
さらにここで探す理由が、街灯があり明るいからなんて、バカとしか思えない。
でも、私たちは意外とこの愚かな男のようなことをしていないだろうか?と考えてみる。

唯一の街灯がある「明るい場所」とは、自分が「見える場所・得意分野」と例えることができる。
何かの問題や課題を解決する時に、その問題や解決がある場所に行くことなく、自分が見える、自分が知っている、自分が分かっている知識や経験で解決しようとすることを、誰しもやっているのではないだろうか?

経営分析やコンサルなどでありがちなことだが、分析者やコンサルが知っているツールを使って事を始めようとしたり、分析者やコンサルが課題や相手の土俵に乗らずに、自分の土俵に相手を乗せようとすることはないだろうか?
それって、もしかしたらこの寓話の「うずくまった男」のやっていることと同じではないだろうかと思えるのだ。

普通に考えれば、問題の本質と向き合わずに何かを探索したところで解決策は見つかりはしないだろう。そして、よくよく考えると似非コンサルが街灯のあるところで、落としていない物を探していることに気づき、愕然とするだろう。

愕然とする似非コンサルはまだ救いがある、救いがないのが、うずくまった男が自分であることに気づかない馬鹿コンサルだ。何故そうなるのか?それは、街灯がある方でやったほうが楽だからであるし、何よりも怖いのは街灯のあるところに真実があると思い込んでいる、うずくまった男の発想そのものなのだ。これに気づかないと悲惨な事になる。

親切にも一緒に探してあげた通りがかりの男は、おそらくは人の良い善人なのだと思える。
そんな善人が困りごとを抱えている人に寄り添って一緒に探すのを手伝ってあげた。
でも、問題や課題、困りごとの本質(実際に落とした場所)を見ずに、ただ寄り添ったところで何も解決しなければ、何も始まらないのだ。しかし善人は寄り添うことで自己満足を得ようとしていた。寄り添いは、時には危険でもある。

だからこそ、この話は笑ってはいられない話である。
人間とは、賢い人も愚かなる人も、このうずくまった男だったり、人の良い善人だったりするからだ。それが人間の本性であるからなのだ。
探し物は本当にそこにあるのか、探す場所を間違えていないだろうかと、常に問い直し続けることが必要だと思うのだ。
#note   #エッセイ   #高齢者   #フリーター   #役立たず
【記】やく・たたず(屋久 佇(竚))

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