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好きじゃない言葉2題──「我が身をつねって…」と「なせばなる」

僕はソーシャルメディアにはあまりネガティブなことは書かないようにしているのですが、特定の誰かを非難するんじゃなくて、単に自分の生き方や人となりを物語るものだったら良いか、と思って少し書いてみます。

僕には好きじゃない、と言うか、嫌いな言葉が2つあります(タイトルだけはちょっと和らげておきましたw)。いや、僕は嫌いなものが多いですから(笑)、探せば他にもどんどん出てきそうな気もしますが、まあ、今思いつく2つだけにしておきます。

我が身をつねっても仕方がないことがある

僕は小さい頃から、褒められる時は「几帳面」、貶される時は「神経質」だと言われてきました。

会社に入ってからも、事前に周到な用意をした上でコツコツとコンスタントに仕事を進めて行く奴だと思われていたようです。

ただ、気づいていない人が多いのですが、僕が周到に準備をするのは、単に僕がパニック体質だからです。想定外のことが起きるとすぐにパニクってしまい、何ごとにも対処できなくなってしまうのです。それが怖いから、考えられる限りのことを想定し、想定外のことが起きないように準備をするわけです。

こう見えて僕は計画を立てるのが大嫌いで、何ごとも行き当たりばったりにやるのが好きです。朝起きて、「今日はあれとこれをやろう」みたいなことは考えますが、一年間の予定表を作ってそれを壁に貼っておくなんてのはまっぴらごめんなのです。

だから、会社で期首に目標を立てさせられたりするのが嫌で嫌でたまりませんでした。

とは言え、いざ何かをやると決めたら(あるいは、やることが決まってしまっていたら)、その際に想定外のことが起きるのがとにかく怖いので、一生懸命考えを巡らせて、いろんな準備をしてから臨むのです。

そんな僕を見て、「そんなにいろいろ準備してからでないとやらんような、そんな生き方してるとしんどくない? 俺みたいにもっとイージーな生き方したほうが楽しいよ」みたいなことを、明らかに嫌味として言ってくれる先輩がいました。

しかし、そこには大きな勘違いがあると僕は思うのです。

そんな生き方をして楽なのは彼であって僕ではありません。彼が僕のような生き方をしたら、そりゃしんどいのかもしれませんが、別に彼にそういう生き方をしてほしいとも僕は思っていませんし。僕と彼は違うのです。

彼はただ僕を見て僕みたいな生き方をするのはしんどいなと思ったから何も考えずにそう言ったのでしょうが、僕にとっては彼のような生き方をするほうがむしろしんどいのです。

「自分がそうだから他人もそうだろう」なんて、なんか幼い考え方をしているな、と僕は困惑してしまうのです。だって、我が身をつねってみても他人ひとの痛さなんて分かるはずがないじゃないですか。

そう、随分前置きが長くなってしまいましたが、僕の嫌いな言葉の1つ目は「我が身をつねって他人ひとの痛さを知れ」です。

いろんなことを自分に置き換えて考えているだけでは限界があると思うのです。自分はこうだけど他人は違うのかもしれない、という想像力がないと、例えば差別とか国際政治みたいな大きな問題は、ちゃんと考えられないのではないかと思うのです。

僕は小さい時から母によく「我が身をつねって他人の痛さを知れ」と言われました。でも、すでにその頃からその言葉に対して生理的な拒否感がありました。そして、長じてからは上に書いたような理由で、この言葉は僕にとって完全に違和感のあるものになりました。

大事なことは「何かと言うと必ず我が身をつねっているようでは、いつまでたっても他人の痛さなんか分からない」ということを知ることではないかと、そんな風に考えるようになりました。

なせどもならぬこともあり

2つ目の嫌いな言葉は「なせばなる」です。

これは母が好きな言葉で、彼女はよくフル・バージョンで、「なせばなる。なさねばならぬ、何ごとも。『ならぬ』は人の『なさぬ』なりけり」などと言っていました。

この言葉に対しては、僕は小さな頃からはっきりとした反発を覚え、「嘘つくな!」と思っていました。「だったら空を飛んでみろよ」「100m を 3秒で走ってみろよ」と思っていました。

いくらなんでもそれは話が飛躍しすぎだと思うかもしれませんが、しかし、ことほどさように物事にはどこかに「できない」ラインがあるはずなのです。

世の中には誰にも大抵できることもありますが、あの人にできたからと言って自分にはできないこともあるのです。100年後にはできるかもしれないけれど、今はとりあえずできないこともあるのです。

僕は、人生というのは可能性を棄てる旅だと思っています。子供の頃には大人になったら何にでもなれるように思っていて、いわば頭の中にあった無限の可能性を、ひとつずつ棄てて行くのが人生という旅ではないかと思っています。

僕も人並みに、小さい頃からいろんな職業に憧れました。

最初は野球選手になりたくて、次は漫画家、シンガーソングライター、小説家、映画監督やテレビドラマのディレクターなどと、いろいろ変わりましたが、「これはどうやら無理っぽいな」とか、「悔しいけど、これはきっぱり諦めるしかない」などと、それらの可能性を順番に棄てて行った結果今の自分があるのだと思っています。

悲観的な人生観だと思われるかもしれませんが、自分ではそうは思っていません。ひとつ棄てるからこそ次に追い求める可能性が見えてくるのだと思います。その連鎖の先に今の自分があるのです。

諦めなかった場合の自分と今の自分を比較しても意味がないと思っています。諦めなかった自分は非現実ですし、諦めたからこそ今の現実の自分があるのだと思います。

そのためには、どこかの時点、どこかのポイントで「これはいくらやってもできない」と判断する必要があります。

できる人もいるんだろうけれど、自分には多分できない。

辛抱強く続けていたらひょっとしたら実現するかもしれないけれど、そこまで辛抱はしていられない。

──そんな風に考えて退くことも人生なのです。

そう、「なせどもならぬこともあり」──それが僕の教訓です。

もし、なにごとも「なせばなる」のであれば、もし諦めずに努力を続ければ夢は必ず実現するのであれば、全人類は、そして世界は、今の何千万倍ものスピードで進化しているはずです。

努力が本当に、必ず報われるのであれば、みんなもっともっともっともっと努力するでしょう。

そうじゃないから挫折するのです。

逆に僕が思うのは、努力しても全く無駄かもしれないのに、それでも努力するからこそ努力というものは尊いのであり、努力している人は偉いのだということです。

だから、安易に「なせばなる」なんて脳天気なことを言わないでほしいのです。それは僕には、死ぬような思いで努力を続けている人を馬鹿にしているようにさえ思えてしまいます。

「絶対にできる」とも「絶対にできない」とも、誰にも言い切れるものではありません。そんな状況の中で自分なりにギリギリの決断をしたのであれば、進むのであれ退くのであれ、僕はその決断を尊いものだと思っています。

自分を鼓舞するために、ひたすら自分に対して、自分だけに対して、「なせばなる」と念じ続けるのは良いかもしれません。でも、決して誰かに言うべき言葉ではないと思います。

そして、そういう風にずっと自分に言い続けてきたとしても、その言い続けてきた果てに、突然どこかで断念することもあって良いのだ、と僕は思っています。

僕はそんな人に「断念しても良いんだよ」と言ってあげたいと思っています。そして、その一方で、「諦めずに頑張っている人はすごいな」とも思っています。

ただ、一生懸命やれば何でも実現するわけではありません。
人生ってそういうものじゃないでしょうか?

いちいち面倒くさいことを言う奴だと思われたかもしれません。
そうですね。僕は人生はどうしようもなく面倒くさいものだと思っていますから。

ここ ↓ にも、この文章とかなり重複することを書いています:


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