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【追悼:村上ponta秀一】ポンタさんに教わった4つのこと

 ポンタさんの訃報を伝えてくれたのは、PONTA BOXのマネージャーとして活躍した元BUG corporationの安部裕之でした。今は音楽業界から「足を洗って」いますが、寝食を忘れてポンタさんの活動に尽力した功労者です。連絡ありがとう、と言う以外に言葉が見つからず、電話で3秒位フリーズしてしまいました。

 ポンタさんとは、所属事務所の社長として15年以上お付き合いしました。 3年前に音楽活動45周年イベントを観に行って、ドラムプレイがキレ味が抜群で感動的でした。50周年が楽しみだなと思っていたところでの訃報でした。ご本人は気が済んでいるでしょうが、まだ70歳でしたから、残された僕たちは寂しいですね。

 訃報を聞いてから2週間経って、やっとnoteに書く気持ちになりました。多くのミュージシャンから愛されたポンタさんには、素晴らしい追悼文をいろんな方が書かれているので、僕は全くの私的体験として、自分が学んだことを記しておこうと思います。日本一のドラマーと言われた超一流の音楽家と接したことで、(「教えたつもりは1ミクロンもない」と言われるでしょうけれどw)僕は本当にたくさんのことを学べたと思います。


リズムには幅がある

 ライブを間近で随分見聴きさせてもらいました。ポンタさんのドラムスタイルに対してはリスナーによって好みはあるのでしょうが、僕はある時に気づいて感動したのは、ポンタさんの奏で出すリズムには、「幅」があるということです。柔らかでしなやかなバッファーと言うのでしょうか?
 リズムと言うと、「正確かどうか」という話になりがちです。そうでない場合は「Groovyか」「踊れるか」みたいな論点があります。多様なスタイルの音楽に対応するポンタさんは正確さもグルーブもクリアした上で、臨機応変にリズムを刻み生み出していました。見えている世界の広さ深さは半端ではなかったです。リズムを刻むという行為にこんなにも幅としなやかさと柔らかさがあるということを知りました。ポンタさんのドラムを通じて聴くことで、音楽の捉え方を多面的に持てるようになりました。

「看板」を背負う人を立てる

 野球に例えるなら、グラウンドに出ると仕切るのは監督ではなくキャッチャー、演奏が始まればアレンジャーではなくドラマーが現場監督です。ステージへの責任感は人一倍でした。そのためか、シンガーからの信頼も厚く、深い信頼関係で繋がっているようでした。
 楽屋やMCでは、茶化すことも多かったですが、「看板」を背負っているアーティストを裏で支えるという態度が徹底してました。その裏返しで、自分がリーダーとして人前に立つ時、レコーディングでもライブでも、スタッフへの気遣いが抜群でした。
 比べるのも恐れ多いのですが、僕が人前でモデレーターをする時に、イメージするのは、ステージ上のポンタさんです。えげつないミュージシャンジョークを真似しないように気をつけつつww、ファンを喜ばせながら、全体を気配りする180度の視野角は心がけたいなと思っています。

ボーヤは一年以上やらせない

 昭和のバンドマン気質を強く持つポンタさんの私生活は無茶苦茶なところもありました。お酒の量も女性関係も半端ではありません。ドラマーの弟子兼アシスタント(ローディと言うよりもボーヤという言葉がまさにぴったりです)の扱いもひどく、車の運転ができないポンタさんは、自分の機材車をボーヤに運転させますが、愛人宅前で一晩待たせるとか平気でやるし、たるんでいれば、手や足が出る時もあります。「まったくなー」と思うこともありましたが、立派だったのは、ボーヤに対して「親に必ず挨拶する」「1年以上やらせない」というルールを自分に課していたことです。
 アシスタントは長ければ長いほど使う方は楽になっていきます。事務所にとってもそうなのですが、ポンタさんは1年ルールは厳格でした。決まったと思ったら、数日で逃げ出して、元のボーヤが慌てて戻されることはありましたが、すぐ探し始めます。
 説明するような野暮はしない京都育ちのポンタさんでしたが、ボーヤで学ぶことは1年で十分、それ以上やると音楽家としてだめになる、自分も楽して馴れていくのがよくない、と思っていたのだと思います。
 これも比較して大変恐縮なのですが、僕が山口ゼミをやっていく中で、チューター制度を導入した時は、「自分のいる場を濁らせない」というポンタさんの姿勢は意識しました。「2年以内に引き継ぐ」というルールにして、今は3代目のチューターになっています。

他はともかく、音楽に真摯に向き合う

 そして生活や行動は無茶苦茶でも、音楽に向き合う時の真摯さと探究心は半端無かったです。会話の中で知らないアーティストの名前を耳にすると隠れてメモして、すぐにボーヤにCDを買いに行かせます。常に音楽を聴いている人でした。イキの良い若いミュージシャンを見つけるとすぐにセッションします。無名かどうかとか全く気にしません。当時は六本木ピットインという素晴らしい実験場があったので、そこでライブをやります。「山口、友達の〇〇。こいつの演奏の〇〇がすごく良いんだよ」と紹介されたことは数え切れません。二周り以上年下でも、音楽家としてなにか一つ自分にとって見どころあればリスペクトして付き合います。僕らスタッフは陰で「ポンタさんがまた若者の生き血を吸ってるよ」と揶揄しつつも、感心してました。セッションをすることで新しい感覚を吸い取っていたのです。それっきりになる若者もいれば、ポンタさんとの演奏経験や人脈で活躍の場を広げて成り上がっていったミュージシャンもたくさんいました。僕の若い起業家との向き合いは、ポンタさんの歳下をリスペクトする姿勢を見習っている自覚があります。

 それから、僕がエンターテックエバンジェリストと名乗って、テクノロジーを語ったり、職業作曲家の育成をしたりしていても、「音楽の神様に恥ずかしいことをしない」という基準を自分の中に持てているのは、ポンタさんと過ごした時間があるからでしょう。音楽の素晴らしさを体感していることが、僕の言葉に説得力を与えてくれているのだとしたら、それは間違いなくポンタさんのおかげです。訃報を聞いて、20年前にポンタさんの音楽体験を伝えたくてメールマガジンを出していたのを思いましました。途中までは僕自身がライターとして取材して書きました。ポンタさんの参加作品と影響を受けたものの二本立てのアルバム紹介、「音楽虎の巻」という無料メルマガです。もちろん随分前に廃刊になっていますが、バックナンバーはまぐまぐに残っていることがわかったので、Spotifyプレイリストと一緒に何らかの形で再現させたいと思っています。(なかなか時間がとれないので、興味がある人いたら手伝ってください。)

 訃報を聞いた後に、PONTABOXをビクターのディレクターとして「デビュー」させ、45周年イベントも仕切った旧友で、今はフジパシフィックミュージック執行役員の吉田雅裕さんと電話で話しました。「コロナで家にこもったのが逆に良くなかったのかな」という僕の発言に「あれだけ好き勝手やった人が、最後ひとみさん(奥さん)と二人で過ごせてよかったんだよ。」よっちゃんの優しい言葉を聞いて、救われた気持ちになりました。僕らはポンタさんの演奏が聴けなくて残念ですが、最後の一年間を奥さんと自宅で過ごせたことは、ポンタさんらしい「運の強さ」だと思うことにしました。

 ちなみに、この投稿のTOPの写真は、45周年ライブの楽屋に伺った時の作詞家こだまさおりとの3ショット。実は、こだまとポンタさんが事務所もレーベルも同じだったって今の若い人には謎の話だろうなと写真をアップしながら思いました。ポンタさんはシンガーソングライターとしてのデビュー前から「さおりちゃん」と呼んで可愛がってくれていました。人に歴史ありって感じ?僕にとっては思い出深い写真になりました。

 ポンタさん自体は、やりたい放題の人生で、音楽もお酒も×も◯◯◯もやり尽くしたと思うので(×は漢字一文字、◯はカタカナ三文字ですw)大往生だと思います。「山口!はっきり言えよっ!」て声が聞こえますww

 佐山雅弘さんとポンタさんが、仲良しだったイラストレーターの和田誠さんの前でセッションするのを井上晃一が撮影しているのだとしたら、あの世って、素敵なところですね、合掌。



 

モチベーションあがります(^_-)