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「グリーンマイル」を見て考えたこと

 映画「グリーンマイル」を見ました。いい映画でした。

 映画自体に対する正面からの批評も、やればできそうですが、私は自分の問題意識を抱えながら他人の作品を見ているので、自分の問題意識と交差する所だけ取り上げて言及したいと思います。なので、「グリーンマイル」という映画に対する批評というよりは、私自身の思想の吐露という事になると思います。

 「グリーンマイル」は、人を癒やす不思議な力を持った大柄な黒人のキャラクターを中心に話が回ります。彼の名前はジョンと言います。主人公は彼ではなく、死刑執行等を行う刑務官のポールです。

 ジョンは、二人の少女を強姦し、殺した罪で、死刑囚として刑務所に送られてきます。ジョンは実際には無実で、殺した人間は別にいます。ジョンは、他人の痛みを感じて、肉体の傷や病を治す力を持っています。ジョンはその力を使い次々と奇跡を起こすのですが、ジョンの死刑は決まっており、まわりの人間はどうする事もできません。

 作品の終盤で、刑務官のポールがジョンを逃がそうとする場面があります。死刑囚を逃せば、ポールは刑務官として築いてきた全てを失う事になるし、彼の家族だってどうなるかわかりません。それでも、ポールはジョンに同情して「逃げたくないか」と問いかけます。

 ジョンは「逃げたくない」と答えます。ジョンはその不思議な特質から、常に人の痛みを感じ続けており、また人間の愚行に辛い感情を味わっており、それ故に、ジョンは処刑される事を望みます。逃亡の話は立ち消えになります。

 私が注目したいのは、ポールが、ジョンに逃亡を勧めた時の会話です。ポールが逃亡を進めると、ジョンは「誰がそんな馬鹿な事を?」と問い返します。それに対してポールは次のように言います。

 「最後の審判の日、神の前に立った時、神は俺にお尋ねになる。『なぜ お前はあの男を殺したのだ? 奇跡を行う私の使いを』 俺はどう答える? 『職務だったから』と?」

 この台詞を聞いた時、最近考えていた問題がよりはっきりしたと感じました。それについて簡潔に書いておこうと思います。

 ※
 ポールがジョンを逃がそうとする動機は、「最後の審判の日、神の前で」という究極的なイメージとしての倫理故でした。私はこの事を重く見たいと思います。

 そしてこの事、つまり「最後の審判の日、神の前で」というイメージに従った倫理的行動は、現実における職業的倫理と反しています。大袈裟に言えば、天上的倫理と地上的倫理に矛盾がある、という事です。

 それに対してポールは次のように言っています。「俺はどう答える? 『職務だったから』と?」 この『職務だったから』は言うまでもなく、地上的な倫理です。

 私が現代社会に対してずっと感じてた疑問というのは、これだと思います。つまり「最後の審判の日、神の前で」という究極的なイメージとしての倫理が、すっぽりと抜け落ちているという事です。その代替物として現れるのが「職務だったから」というような地上的倫理です。

 最近はやたら、弁護士の言葉などが取り上げられ、ある事が違法であるか、適法であるか、その事が同時に我々の倫理そのものであるかのように語られます。もはや人は驚きもしないでしょうが、何が正しく間違っているのかを、究極的な、人として問うた倫理によって決めるのではなく、現実に決められた法律の在り方で決めようとしているのです(思考の放棄)。

 これをポールの立場から考えてみましょう。現代の、聡い人々は、ジョンに同情しつつも、決してジョンを逃がそうとはしないでしょう。また、ジョンにそう持ちかけないからといって、自らの良心に照らし合わせて、自分を責めるというような事もないでしょう。というのは「神の前」といった垂直なイメージは現代からは失われ、唯物論、地上における倫理、功利主義、そういったものが世界を完全に支配したからです。

 現代の利口な人は、「ジョンを逃したかったけど、できなかった。でも、それは仕方なかったんだ。自分には家族がいる。子供もいる。しょうがないじゃないか。それに、それが仕事なんだから」と言うでしょう。人の中にある垂直的な倫理は失われているので、自分の行動の規範は地上的なものに委ねられている。それゆえに「職務だったから」で、あらゆる話は済んでしまうのです。

 私が、現代のドラマ、恋愛や仕事、趣味等々を盛り込んだ作品に心を動かされなかった理由もわかってきました。また、フェミニズムであるとか、少数者の権利主張のようなものも、それらに妥当性は感じつつも、積極的に評価する気になれない理由もわかってきました。それらは全て同一の源泉から発しており、それらは源泉を越える事は決してないからです。

 その源泉とは自己愛です。それらは、自己を越えるものを自らの中に持つ事は決してないでしょう。

 横光利一にこういう俳句があります。

 「蟻台上に飢えて月高し」

 蟻は、台上に飢えている小さな存在ですが、月が高い場所にあるのを知っています。月の存在を知っているという優越と、飢えて死ななければならない蟻の惨めさが同時に滲み出ています。その両面から人間というものが何であるかが語られています。

 月を知る事がなくなった蟻には、飢えるか飢えないかが問題の全てです。地上的な倫理です。

 現代においては、もはや「月」に相当するものは存在しなくなりました。それゆえに飢えるか、飢えないか、それだけが問題になりました。大層な事を言う場合も、卑下して言う場合も、現れるのは自己の欲望の充足であり、それを越えるなにものも存在しない。

 もちろん、「最後の審判の日、神の前で」のような論理も、自己愛の一種だと言いたければ言えるでしょう。概念だけで語るのなら、誰でも正解を語れます。しかしそう言う人は、その言葉の内実をどれだけ深く感じているでしょうか。自己愛が自己否定にまで至る精神の経路、その重みを感じてそう言う事を言うのであれば、その言明には大きな意味があるでしょうが、テストの答えのように「所詮は〇〇にすぎない」と言うのであれば、大した意味はないと思います。世界は、テストのようにぺらぺらとしたものでできているわけではありません。

 そうしたわけで、「グリーンマイル」という映画は自分の中にある問題を整理するのに好都合でした。ちなみに言えば、私の言うような垂直的な倫理というものは、「グリーンマイル」がテーマとしているような西欧=キリスト教だけではなく、日本にもあったと考えています。

 内村鑑三が武士道とキリスト教を貫通させたのはいい例かと思います。また、維新志士の一人、前原一誠のような人が、破滅を恐れず、自分の「職務」を越えて国に尽くそうとした為にかえって国と争う事になり、乱を起こして滅んでいった様も、前原の中に垂直な倫理があったと考えれば納得できます。

 これらの事柄は現代の、現実の功利だけに目を向けていると理解できない現象のように私には思われます。現代においては倫理は現実的な功利に代替されているので、「天才」の名を冠して出てくるのは小物ばかりです。彼らは現実に拘泥しているので、現実が変われば、速やかに入れ替わります。彼らは何にでもよく適合する秀才であり、時代と環境に適合できる才能であるからこそ、時代や環境が少し変じただけで、速やかに歴史の舞台から退場していくのです。

 

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