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オリジナリティと批評性の関係

 これから書く事は、考えがまとまってから書こうと思っていたが、時間が経っても考えがまとまらないので、まとまらないままに書く事にする。もしかしたら、メモ書きのような文章になるかもしれない。
 
 さて、芸術作品におけるオリジナリティとは、通常、他の作品との形式の違いと考えられているが、そうではないのではないかと私は考えている。そもそもで言えば、芸術家はオリジナリティを追求する必要はないし、そこはそれほど重要ではない。オリジナリティとはあくまでも結果として現れてくるものであって、目的にするものではない。
 
 それでは結果として現れてくるオリジナリティはなぜ、芸術作品に刻印されるのだろうか。それは作者の側の、批評性に拠っているのではないか。この場合、批評の対象は、過去の作品群が該当する。つまり、芸術の歴史が先に存在し、それらの歴史に対する自己の批評性が、結果としてオリジナリティになるという事だ。
 
 しかし、抽象論に入る前に、私が間違っていると思う例を先に取り上げて、考えてみよう。
 
 芸人の松本人志が2012年4月12日にツイッター(現X)で次のように呟いている。
 
 「アートって誰もやってないことの見つけ合い。。。さらに笑いを融合したいオレはそりゃたいへんだ。。。」
 
 松本人志は芸人だが、映画も撮っていたので、それに関する事を言っているのだろう。
 
 松本は「アートって誰もやってないことの見つけ合い」と言っている。松本人志の頭の中ではおそらく、芸術というのは、空間的に捉えられているのだろう。例えば、ゴッホはあるパターンを生み出した、ピカソは別のあるパターンを生み出した、というように。
 
 松本の言葉からわかるのは、彼の中ではアートというのは時間というものを持っていないという事だ。松本は教養がないので、芸術の時間的な相というのがわからない。だからあらゆる芸術作品がフラットなものに見え、そういう平たい空間の中で「誰もやってないこと」をやればそれがアートだと考えている。言ってみれば、空間における場所の取り合いだ。
 
 実際には「誰もやってないこと」をただ芸術作品として見せられても、観客は困惑するばかりだ。実際、松本人志の映画は素人にも玄人にも評価されていない。松本の映画は、後に評価される傑作だと言う人もいるかもしれないが、そうだとすれば、松本の映画はあまりにも薄っぺらすぎる。
 
 ここで、松本に欠けているのは、過去の映画作品、映画の歴史、またそうした映画を紡ぎ出してきた現実(歴史)に対する批評性だ。ここで、私がイメージする批評性というものについて簡単に説明したい。
 
 ※
 今、これを読んでいる読者がこれから作品を作る立場にあると仮定して欲しい。小説を書く、映画を撮る、絵を描く、音楽作品を作る、なんでもいいが、そうした作者の立場にいると仮定する。
 
 あなたはこれから作品を作る。その際、あなたは一体、何をガイドにするだろうか。
 
 レベルが低ければ、「小説家作法」のようなものをガイドにして小説を書こうとする。もちろん、これはレベルが低い場合の話だ。「小説の書き方」を横目に睨みながら傑作が生まれる事などはありえない。
 
 作者というものはすべて、「無限の前に腕を振る」といった心境で事に望まなければならない。自分の作るものがいいものになるか、悪いものになるか、それはわからない。だがとにかくやってみるしかない。
 
 しかし、自分の情熱や感性だけで良い作品を作るのは不可能だ。情熱のままに描き殴ったように見えるゴッホは長い下積み時間を経ている。「幼稚園児でも描ける」といわれるピカソの絵は、徹底してデッサンを鍛えた後に生まれた。
 
 要するに、作者は二つの境界に挟み込まれているわけだ。一つはこれから自分が作品を作る場合の自由性、何ができるか、良いものになるか悪いものになるかわからない、そういう創造の自由、おそれ、慄きといったものがある。もう一方においては、既に成立した作品群が存在する。それらの作品は、人類の歴史を経て残ってきた「傑作」である。駄作は残っていない。淘汰を経た名作の群が目の前に存在する。
 
 もちろん、松本人志をはじめとして、過去の傑作群に対する教養が欠けている場合は、単に自分が真っ白なキャンバスに色を塗るものだとイメージされている。それ故に作品を取り掛かる際に生じる震え慄きはない。あるとすれば、観客に受けるかどうか、投じた金銭を回収できるかというような現実的な不安でしかない。
 
 注意したいのは、眼下に広がるのは「成った作品」であるという事だ。既に生成を終え、冷えて石になった溶岩のように、硬い結晶として過去の作品は存在する。それに対して、今、作品を作ろうとする作者は、作品を作ろうとする自由の中にある。作者は「今」という自由と、既に成った「過去」との間に挟み込まれている。
 
 作品を作るあらゆるガイド、ツール、アドバイスというのは、根底的には、この絶対的自由を手にした創作者には二次的な関与しかできない。結局、どういうアドバイスがあろうと、ガイドがあろうと、とにかく作者は一歩足を踏み出さなければならない。自分の足で。しかし、世の中には権威主義者が多いので、自分の足で歩かず、なにかにすがりつくように歩行しようとする者も多い。
 
 「ビートルズ風の曲」はビートルズとは全く違うものだ。「ゴッホのような絵画」はゴッホその人が表現した自由性とはなんの関係もない。
 
 人工知能はゴッホ的な絵画を生み出す事はできても、ゴッホそのものが自らの中に抱いていた精神的自由を生み出す事はできないだろう。要するに、人工知能はゴッホ的なものは作り出しても、ゴッホそのものは作り出せない。しかし、作品を形式としてしか見ない、つまり作者が抱いている根源的自由を知らない人間は、ゴッホ的な絵画とゴッホが抱いていた自由の発露としての作品との差異を、決して見ようとはしないだろう。
 
 ある作品が作られる時、作者は自らが自由の中にいる事を感じる。そこから足を踏み出す。彼は、何も頼りにできない。彼はとにかく作っていく。その中に自分の感性や、表現性が発露される。
 
 しかし同時に、彼は芸術の歴史の支配下にある。過去の作品群を無視して、自分勝手に作品を生み出す事は不可能である。そうした作品は、妄想を語る狂人のようなもので、普遍性というものを欠いている。
 
 一方では既に成立した作品があり、もう一方では、自らの手で何かを作らなければならないという自由性がある。自由はしかし、過去の作品の構造や形式に囚われなければならない。これは矛盾しているようだが、この矛盾を実際の創作という行為によって解いていかなければならないのが芸術家というものだ。
 
 例えば、印象派と呼ばれる一群の画家がいる。印象派は、自らは印象派であり、印象派が描きそうな絵を描かなければならないと信じて、絵を描いているのだろうか? …そんな事はありえない。画家は自分が表現できる一番いいものを表現しようとしている。そしてその個性が、時代や環境が生んだ「印象派」という画風とたまたま一致するだけだ。
 
 そうした一致は、個人の自由意識と、歴史的に作られた「作風」や「流派」といったものとの幸運な一致である。芸術家というのは、この絶対的な一致を何年かかろうと求めなければならない。自らの中にある自由を自分勝手なものから、普遍的なものにしていく為には、それまでに醸成された他者の形式性と関わったものにしていかなければならない。
 
 だが、同時に、どれほど普遍的で立派で、素晴らしい形式性があるとしても、それが自分の自由な自意識の表現意欲を満足させないものであるならば、そうした形式性は捨て去らねばならない。芸術においては何よりも作者の魂が十全に表現されていなければならない。
 
 ここにおいて、個人の自由と、既に成った形式との一致が現れなければならない。自らの自由な魂を持たない者は、たやすく他者の形式の支配下になる。彼は小器用で、様々な方法論を駆使するが、一方では自らの魂の形式を発見する事はできない。彼には独自性が欠けている。
 
 一方、独自性だけが先行する人間は、狂人の繰り言のような他人にはわからない支離滅裂な主観的な形式を繰り返すばかりで、他者との連関を持てるような普遍性を持たない。
 
 例えば、ゴッホのような人物は確かに狂気を孕んだ人物だった。精神病を抱いた人間であり、彼は生活者としてはほとんど全てに失敗している。生涯に一枚しか売れなかった画家として、精神を病んだままに自死したのが彼の人生だ。
 
 彼の人生を見ると、他人と相容れない彼の性格がよく見える。彼は他者と和解しようとしたが、「ハリネズミのジレンマ」のように、そうした行為は他人を傷つけ、自分を傷つけた。彼は孤独な狂者として死んだといっていい。
 
 ただ、彼が絵画というものによって、人類の普遍的な意識(何と言えばいいかわからないが)と関係しようとしていたのは確かであり、あるいはそれは、生活者としての彼が世界から疎外された故に求めた関係だったのかもしれない。地上が閉ざされた時、人にははじめて空がぽっかりと開けているのが見えてくる。
 
 ゴッホは精神病だったが、彼の絵画は意識的な、技巧的な修練を経たものとして、狂気的情熱を表現する形式を得た。それは、彼の魂が彼自身に見合った形式を得るのに随分と時間がかかったという事であり、それこそが彼の徒弟時代の意味だったのだろう。
 
 このようにして、芸術家は自らの魂、自意識の自由性を普遍的なものに高める為に「手(=技術)」を持たなければならない。ゴッホが自分の絵を描く為に、長い修練が必要だったという事は、「自分」という独自なものを普遍的なものにする為に長い道のりが必要だという事である。それは自己と世界とを和解させる形式の獲得である。世界と和解できなかったゴッホと名付けられた人物は、絵画という表現形式を通じて、世俗な形で世界と融和している人物よりももっと深い部分で世界の核心と和解していたのだ。
 
 ※
 話を戻そう。オリジナリティと批評性の関係についてだ。
 
 批評性とは上述したように、既に存在する作品の全体に対する批評性である。自己の立場を示す事である。
 
 過去にはあらゆる傑作群が存在するが、それに対して自分は一個の無として、それに面接する。過去の偉大な作品に及ぶ事が難しいとわかっていても、それでもなお、彼はそれを作らなければならない。それは何故なのか、という問いに彼は彼自身の存在をもって答えなければならない。それは、彼が現に生まれ、生きているというその事、それを示す事によって答えとなるようなものだ。
 
 例えばセルバンテス「ドン・キホーテ」という作品においては、過去に存在する騎士道物語という形式に対する批評性それ自体が、作品の骨子に当たっている。騎士道物語という封建社会において有効だった物語が社会の変遷によって崩れてきた事、それを一人の天才が捉えたというところに偉大な作品が生まれた。
 
 作者、セルバンテスは騎士道物語に対して批判的な立ち位置を占めている。一方、主人公のドン・キホーテは騎士道物語を信じきっており、自分自身を騎士と勘違いし、痩せ馬を名馬と勘違いし、田舎娘を姫と勘違いする。そんな風にして物語は進行する。
 
 ドン・キホーテは、騎士道物語を信じ、それを遂行するが、現実と理想の落差に挫折する。この物語の構造そのものが、過去の騎士道物語に対する作者の批評性と正確に対応している。批評的な作者の精神構造そのものがそのまま作品の構造になっている。
 
 ※
 批評性が作者のオリジナリティになるという構造についてもう一度考えてみたい。今まで述べてきたように、作者は、既に存在する作品に対して、自分は無であり、同時に自由であるという意識から作品を生み出す。
 
 しかし、松本人志のようなタイプのアーティストであれば、そういう意識は薄い。それは例えば、ゴッホ風の絵を生み出せば、すぐにゴッホと同じレベルになれると錯覚してしまうようなものだ。ゴッホは既にいるのだ。そしてゴッホ以前にはゴッホはいなかったのだ。ゴッホはゴッホ自身に「成っ」た。それがゴッホが体現した、我々が想起する「ゴッホ」という人物の自由の意味である。
 
 芸術作品は、空間的に新たなパターンや形式を生み出す仕事ではない。それは彼が芸術作品を平面的に見ているからそう見えるだけの事である。
 
 作者が、自分は無であり、自由であるという意識から、過去の作品群に対してどのような関係を取り結ぶのか、それが問題となってくる。それは創作の問題であり、同時に、そうした創作過程が作品の形式となって現れる。
 
 神聖かまってちゃんに「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲がある。この曲では、曲の中の主人公(=作詞作曲者である「の子」)が、過去のロックをどう聴いたのか、それをどう感じたのかという事が作品の中にメッセージとして取り入れられている。
 
 曲の最後には、「自分がギターを鳴らす時、ロックンロールは鳴り止まない」というメッセージが現れる。これは、ロックに対してどういう態度を取るのか、ロックに対する批評性を自らの中に持ち、最後にはその批評性を世界にぶちまける事がそのままロックの哲学を体現する、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲はそういう構造になっている。
 
 これと比べた時、いわゆる「ロック調」の曲を小器用に作っているアーティストというのは、ロック的ではあっても、ロックそのものではない、と言えるだろう。ロックというのは一つのジャンルであるが、その原初においては一つの批評性、一つの自立存在から生み出される叫び、メロディであったはずだからだ。
 
 神聖かまってちゃんというバンドのオリジナリティは、彼の過去のロックに対する批評性にあると言ってもいいだろう。彼は、ロックの渦中にいる人間ではない。しかし、ロックを知る者である。知ろうとする者である。
 
 誰しもが憧れから物語を始める。長じて、対象に対して批判的な視座を作っていき、やがて対象と切磋琢磨しつつ、自己を作り上げる。自己を作るとは自己の作風を作り上げるという事だ。そして最後に、他人に批判されるような対象になっていく。そのようにして芸術家は一つのストーリーを生きる。
 
 今の社会は批評性というのが忌み嫌われている。「批評するだけなら誰でも言える」などとすぐに言われる。確かに、対象に対してあれこれ言うのを「批評」と呼ぶのならそれは正しい。しかし、批評というものを広義に考えるなら、そのような話では収まらない。自己の自意識の構造そのものが、そもそも世界に対して一つの批評そのものである。その構造に対して自覚的である事、それこそが、その人間の批評性に他ならない。
 
 現代において批評が嫌われるのは、自己を自立した存在として定立するのが嫌われているからだ。それは個人に孤独の自覚を促す。まるでエヴァンゲリオンの人類補完計画のように、全ての人間が自己を失おうとしている。こうした世界において自らである事、批評性を持つ事、それは難しい事柄だ。
 
 批評性がなくなれば、その存在を外部に明け渡す事になる。成功したから素晴らしい、賞を取ったから素晴らしい、金を稼いだから素晴らしい。これらの思考において価値観は外部にある。批評性が自らの中に存在しない。自らの自意識によって世界と対峙するのではなく、現に「成って」いる世界の膝下に自意識を投げ出し、隷属させる事。そうなれば、テクニカルな技術論だけか後に残る。「芥川賞を取る方法」「一億円稼げる方法」等々……。
 
 そうした世界においても芸術は存在するだろうが、作者のオリジナリティが刻印された芸術作品は存在しない。そこでは、松本人志の言うような形で、オリジナリティというものが単なる他人との差異としてしか捉えられない。
 
 批評性がオリジナリティに化けるとは、そもそも、人間の自己意識の構造が批評的にできあがっており、それに対して芸術家が自覚的であるからこそ起こる事である。自己に対する批評と世界に対する批評は同じ源に端を発している。
 
 ゴッホの作品がオリジナルなのは、その根源から言えば、ゴッホが他人とは違った人間であるからに他ならないのだが、それだけではオリジナルな作品は出来上がらない。ゴッホの作品がオリジナルな形式を持っているのは、彼が自らの宿命に自覚的であったからに他ならない。そうでなければ、彼はとうの昔に自らの作風を捨てていたはずだ。彼は、彼の絵画を否定する目に散々合わされてきた。彼が自らの存在、その自意識、その運命に対して自覚的でなければ、彼はさっさとその作風を捨てて、他人のアドバイスに従って他人の形式、つまりゴッホでなくとも描ける作風に転じたに違いない。
 
 一人の人間とは確かに、どのような他の人間とも交換できない存在だ。しかしこの事実に自覚的である事に耐えられる人間が世界にどれくらいいるだろうか?
 
 芸術家がその作品にオリジナリティを刻印するのは、確かにその芸術家そのものが真にオリジナルな存在であるからだ。そして、誰だって本当は全てオリジナルな存在だ。とはいえ、それに対して自覚的である事、それをこれまでの芸術の歴史と融和しながら、他者にも理解できるような形で自己の作風を作り上げる事。それは容易ではない。
 
 芸術におけるオリジナリティとは、近代以降の芸術家にとっては、自意識の構造がそのまま刻印されたものだと、考えるのが普通であると私には思われる。自意識の構造とは、まさに批評性に他ならない。また、「近代以降」といったのは、要するに「神が死んだ」世界においては、自己の存立にどうしてもある種の絶対性を賦与しなければならないからだ。

 自己というたよりない存在に、ある程度の絶対性を付与しながら、歴史の中で、共同体の中で、孤独ではなく普遍的な、他者と連関できるものをどうやって作り上げるか。おそらくこうしたところに、近代以降の芸術家の本質的な課題があるのだろう。

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