エンタメ批判としての「ドン・キホーテ」

 ネットを見ていたら最近の学者が「エンタメと学問の垣根をなくしたい」と語っていた。そこで、どうして、その人がそんな事を言うのか考えてみた。

 当たり前だが、エンタメと学問は違うものであり、両者は馴染まないものだ。学問は理性的に世界を追求するが、エンタメは理性を眠らせ、視聴者や読者を陶酔に誘う。

 もちろん、高度なエンタメになると、理性による認識も含む。わかりやすい例で言えば、最初から最後まで主人公が傷ひとつなく、成功し続けたり、モテ続けたりするのはもっとも程度の低いエンターテインメント作品と言っていいだろう。異世界に行ったら急にモテたり、なんでもない普通の女の子が、急に大金持ちのイケメンに言い寄られたりするのは、もっとも我々の感性的には気楽で、思考を必要としない作品だ。

 これらの作品が高度になってくると、こうした願望成就の方向にも、苦い味わいが混じってくる。例えば、主人公が魔王を倒し、世界を救い、想い人と結ばれる事、その過程で友人が亡くなったり、何らかの犠牲が出てくる。こうなると作品には苦い味わいが現れ、エンターテインメント作品としてはより複雑になってくる。

 漫画「カイジ」のような作品は、あくまでもエンタメではあるが、大人向けのエンタメになってくる。そこには、現実の過酷さの描写が背後に敷かれているので、我々は現実の辛さを感じつつも、主人公カイジの快進撃を楽しむのだ。現実の辛さを一挙に忘れられる気楽なエンターテインメントとは様相が異なってくる。

 だが、こうしたエンターテインメントの方向をどこまでも強くしていっても、おそらくは「文学」とか「芸術」とかいう概念には届かないだろう。そこでは、最初から考えられている哲学が異なっているからだ。

 最初にあげた学者は、単に時代に迎合する人間であり、だからわざわざ「エンタメとの融合」といった事を言ったのだろう。言葉というのは便利で、エンタメとの垣根をなくしたいとか、エンタメを取り入れたいとか色々言うものの、実質的に目指されているのは、学問の堕落でしかない。

 それは時代の要求に答えて、「今」に迎合する個人の言い訳に過ぎない。学問はエンターテインメントではない。それは理性的に世界を探索していく術であり、学者が酔っていたら話にならない。エンターテインメントを学問する事ももちろん可能だが、エンターテインメントを学問する事はエンターテインメントではない。

 実際、ここで私がエンターテインメント作品について述べている事はエンタメ的な要素はまるでないと言っていいだろう。エンターテインメントとはいずれにしろ、読者を酔わせて、陶酔させる必要がある。エンタメは読者の願望をせめてフィクションの内部で成就しようとする。そこでは現実を忘れて、甘い夢想に浸ろうとする。それでは、そのようなフィクション作品において、現実の辛さを認識し、理性を目覚めさせたままにしておく、文学とか芸術といった方向性は、そもそも一体何の為にあるのだろうか?

 ※
 話を急ぎすぎたようだ。もう少し落ち着いて考えてみよう。

 我々のまわりを見れば、エンターテインメント作品ばかりが繁茂している。私はこんなセリフもよく聞く。「エンタメは元々嘘なんだから、別にいいじゃないか。うるさく言わなくてもいいじゃないか」 私はこのセリフをあるユーチューバーの動画が実はやらせだと暴露された時のユーザーの声として聞いた。「エンタメは嘘」と、彼らも心の底では認識してはいるのである。だが、その真実をじっと見つめる力は彼らにはない。

 そもそも、エンタメを楽しむにしろ、(これはどうせ嘘だ)という見方で見るのは無理な話だ。私は私の周囲の人を観察して、彼らが二重思考に陥っているのに気づいた。「確かにエンタメは嘘だが、それを嘘とわかって楽しんでいる自分はむしろ成熟した大人だ。なぜなら、たとえ楽しく、心地よくさせてくれるものが嘘だとしても、それをあえて楽しむ事のできる自分は、現実の辛さを認識しながらもフィクションで楽しくなれる、そういう態度で楽しくやっていける、立派な大人なのだ」

 彼らの奥底からはこんな声が聞こえてくる。彼らは、自分は信じていないと信じながらも、信じている。そうしてそれに裏切られると、彼らは別のものに目を向ける。アイドルオタクが、アイドルに恋人がいると(そんな事はわかっていた、知っていた)と言いつつ、裏切られたと感じる。この時、我々はそのオタクの中に、理性的な声と陶酔的な声が同居しているのを知る。

 エンターテインメントは作品は我々を陶酔に誘う。幸福であったり、快楽であったりがそこでは目指される。しかし理性が働いている個人は、エンターテインメントに酔う事ができない。彼らは現実の悲惨さに目を瞑る事ができない。エンタメをただ楽しく享受する事はできない。

 エンタメが終わる所から文学が、芸術が始まる。しかし大多数の人間はそこまでは行かない。彼らは理性を眠らせる事を欲しているからだ。

 とはいえ、理性が目覚めている文学において、ただ「現実は悲惨だ」というメッセージだけが記されても、我々は当惑するだろう。我々は現実の理不尽さをフィクションによって見せられる。そうなると「そんな事は知っている。そんなものはわざわざ見せられなくても知っているのだから、余計な事はしないでくれ、そんなものは見たくもない」と我々は感じるだろう。

 それでは、現実の理不尽さや悲惨さと、我々の欲望との間にいかなる関係が作られなければならないだろうか。実際、文学とはそれを探求する学問だと言ってもいいだろう。

 我々の叶えられない欲望が成就する様がエンターテインメントだが、その欲望が何であるかは、そうした作品においては解明されない。かといって、我々の欲望が全く充足されない、当たり前の、生の現実を見せられても我々は辟易する。この複雑な関係を偉大な作家はどう展開していけばいいだろうか。

 私がイメージしているのはセルバンテスの「ドン・キホーテ」だ。ドン・キホーテは、現代の観点からすれば、完璧な「エンターテインメント批判作品」として読める。しかも、エンターテインメント以上に、主人公が世界を渡って冒険していく様も描かれている。私はこの作品を、理性(批判性)と、生の陶酔が高度に融合された稀有な作品だと思っている。

 「ドン・キホーテ」という作品は、簡単に言えば、ただの田舎の親父、ドン・キホーテが、騎士道物語(当時の代表的エンタメと言っていいだろう)を読みすぎて、自分は騎士だと勘違いして、現実のスペインを旅していく物語だ。ドン・キホーテは作品の最後では、正気に帰るが、その時には彼はもう死ななければならない。

 ドン・キホーテは色々なものを取り違える。自分を騎士と取り違え、老馬を名馬と勘違いし、田舎娘を貴婦人だと考える。彼は狂気に陥っており、彼の狂気が世界を物語に変えてしまうのだ。

 「ドン・キホーテ」をエンターテインメント批判として読むならば、騎士道物語という当時のエンタメ作品が()という形がくくられて、作品内に入れられているのが特徴的だ。そこでは、エンタメ作品の本質そのものが作品内部の、一要素にまで格下げされている。ここに強烈なエンターテインメント批判があると言っていいだろう。

 エンターテインメント作品は、人々の欲望を成就するという見かけを持っている。主人公はそうした作品(騎士道物語)を読みすぎて、現実の世界において、エンターテインメント的な世界を振りまく。ここに現実の世界との、強烈な対立が現れる。人間が自らに陶酔せずにはいられない、すなわち、自らを不死と考え、他とは違う特別な存在だと考え、いつかは人々から歓呼をもって迎えられるだろうという、そうした願望を持っている存在だという事と、それ故に彼は厳しい現実と戦い、彼自身は決してそのような特別な存在はないからこそ、この戦いには敗北せざるを得ないという厳粛な真実とーーこれらのすべてがこの作品の『内部』において展開されている。

 エンターテインメント作品においては、「ドン・キホーテ」の一属性である物語性、つまり「騎士道物語」のようなお話が、その全てである。もちろん、エンタメも進化しているのでバリエーションは豊富であり、様々な変化はつけられているがその本質は決して変わっていない。エンターテインメント作品は、自らを()に入れて、作品内に投入する事はできない。それは、その作品を書いている作者の存在、作者の頭の中身をすべて作品内に投入するような事だからだ(一応、注意しておくと、これは「メタ」のような安易なやり方ではできない)。

 ドストエフスキー「罪と罰」もまた「ドン・キホーテ」に近い作品と言えるだろう。主人公ラスコーリニコフは、自らをナポレオンのような存在だと考え、殺人を犯す。だが、彼は自分は英雄でも偉人でもなく、単なる「しらみ」でしかない自分を発見する。

 私は予測するのだが、多くの読者は「罪と罰」を読んでも「ドン・キホーテ」を読んでも、何も思わないだろう。ラスコーリニコフに同情もしないし、ドン・キホーテの狂態を笑いさえするだろう。そうして、彼らはそれがまさに自分自身である事、自分自身の痛い真実を突いているという事に永劫気づかないだろう。多くの読者は、それらのすべてを見過ごすだろう。

 というのは、それに気づくという事は、あまりにもその人の心を深く傷つける、痛い真実であるからだ。彼らは、自分は自分をそんな風に特別だと思っていないと思いながら、無意識的には自分を特別な存在だと考え、(なんとかなる)とか(前向きに)とか言いながら行進していく。そうして彼らは自らが死ぬ時に至ってようやく、自分が不死の存在でもなんでもないただの人間だという事に気づく。

 そう言いたければ、「ドン・キホーテ」は、エンターテインメント作品を内に含み込んでおり、更にその本質を解体した作品であるから、「エンターテインメントを内に含み、エンターテインメントを越えた作品」と言えるだろう。ここにあるのは、エンタメと純文学の幸福な結婚ではない。エンターテインメントに耽溺するとは何であるか、その帰結を徹底的に描いた純然たる文学作品なのだ。

 もっと踏み込んで言うなら、エンターテインメント作品そのものが例え嘘だとしても、人が嘘を欲するとはやはり真実であり、この真実は優れた作家や学者によって解明されるのを待ち受けている。エンターテインメントそのものが我々が欲する嘘だとしても、そういう嘘を欲する我々そのものは現実の存在なので、この人間を描く事はエンターテインメントというジャンルに収まらず、文学や芸術、あるいは哲学のような学問へと繋がっていく。

 「ドン・キホーテ」はこれ以上ないくらい明確に、エンターテインメントを批判した作品であるが、それによって「面白さ」は損なわれたのかと言うと、そうではなく、むしろ我々の欲する「面白さ」とは何であるかを解明する、より高次な面白さが作品に現れたのだ。この面白さは理性に訴えてくるものであり、感性的にのみ、理解できるものではない。

 簡単に言えば程度の低い作品ほど理性は眠っている。しかし、完全に理性的な作品が最も優れた作品なのではない。人は、現に生きており、現に生きる事は感性的であり、陶酔的な事でもあるので、この陶酔的な生と、それを見つめる冷厳な理性が共に生き生きとしている事が作品としては望ましい。「ドン・キホーテ」はそのような作品である。

 この作品は、エンターテインメントと融合した文学作品ではなく、エンターテインメントというものの本質を徹底的に描いた文学作品だと私は思う。その物語性は、作者が主人公の為にしつらえた、自然な(そしてそれ故不自然な)物語性ではなく、我々が物語のような仮構的なものを欲せざるを得ない、それ故に現れてくる物語性である。人間はそのような仮構物に頼らなければ生きていけないという悲しい宿命を描いた作品である。

 それ故に、この作品は我々「みんな」の物語である。この作品は、そこに陶酔する事を許さず、陶酔している様を理性的に眺める事を我々に要求する。しかし、エンタメ好きな現代の我々は、この作品をそんな風には決してみないだろう。彼らはドン・キホーテの狂態をゲラゲラと笑い、彼らはポンコツ芸人を見るようにしてドン・キホーテを笑い、本を閉じ、「正常」で「普通」な自分自身へと帰っていくだろう。

 それ故彼らはいつまでも作品の中のドン・キホーテその人であり続け、自分自身の夢から覚めるという事が決してない。しかしまさにそのような真実があるからこそ「ドン・キホーテ」という傑作は歴史を貫いて、偉大な作品として人々の胸に生き続けるのである。この作品は人々を乗り越えて、もっと先へと至っているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?