ジッドのドストエフスキー論について


 アンドレ・ジッドのドストエフスキー論を読んでいました。
 
 ジッドと言えばフランスの作家で、昔は日本でも随分読まれていましたが、今はほとんど読まれていません。
 
 ジッドと言えば一つ思い出す事があります。私の友人で、非常に賢いある人物と都内の居酒屋で会って話した時の事ですが、ジッドの話が出ました。彼もジッドを読んでいたので、二人でジッドについて話し込みましたが、話しながら私は(この広い東京でアンドレ・ジッドの事を話しているのはこの二人だけに違いない)と勝手に考えていました。まあ、私の嗤うべきセンチメンタリズムとでも言うべきものかもしれません。
 
 ジッドという人は、私は、小林秀雄・太宰治の両人が言うように、小説よりも評論の方が良いと思います。単純に面白さで言っても評論の方がいいと思います。また、その事は、小説のような批評を書いた小林秀雄と、批評のような小説を書いた太宰治、二人の人物が共にジッドから影響を受けたという事とは、時代的な同一性があるように思います。
 
 ジッドの評論というのは非常に率直・簡明で、めんどくさい文芸的な言い回しを好むフランス的な感じではなく、もっと論理的で明晰な感じです。非常に良い文章を書くので、今もっと読まれてもいいかと思っています。
 
 ドストエフスキーに話を移しますが、ドストエフスキーは私も色々読んでいたので、ある程度色々な問題は出尽くしたような気がしたのですが、ジッドの評論を読んで(なるほど)と思い、新たに参考になった部分が出てきました。その点を少しメモしておきましょう。
 
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 感心した部分はたくさんあるのですが、一番は、ジッドがドストエフスキーを東洋的、アジア的と見ている事です。
 
 これは最初、意外に感じましたが、たしかに言われてみるとそのとおりだな、と思いました。ジッドはフランスのキリスト教の伝統をまっとうに受け継いだインテリなので、そこから見るとドストエフスキーは「東」に位置する存在であり、東洋的な、異質なものに感じながらも魅力も感じている。そういうのがはっきりわかりました。
 
 日本人なんかはドストエフスキーが好きで、ドストエフスキーに対する理解・研究もわりとよくやっている方だと思います。それはドストエフスキーの中に東洋的なものがあって、共鳴する部分が多いというのも一つの理由になっているでしょう。
 
 ただ、小林秀雄の評論がドストエフスキーの自意識の問題、自意識と行為の矛盾という重大な問題を深く掘り下げているにも関わらず、キリスト教=神の問題に関しては避けている。そこにいわば極東の、東洋人としての日本人の心性の在り方があるようにも思います。つまり、ロシアは半分東洋、半分西欧で、その特質がドストエフスキーに現れているという事です。
 
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 さて、具体的にジッドはどういう所を東洋的とみなしているのでしょうか。ジッドは「仏教」という言葉も使っていますが、これは意外でした。というのは、ドストエフスキーは仏教に関してほぼ無知だったからです。
 
 しかし、ジッドもいい加減な推測を言っているわけではありません。具体的にはこういう事です。
 
 ドストエフスキーの小説において問題になっているのは自意識と行為です。それが「生」を形作っています。
 
 しかし同時に、生とは呪わしいものであるという認識がどこかにあります。何故、そうであるのかはまた別の問題なので今は置いておきます。ジッドの指摘では、この生の問題をどこで解決するかと言うと、ドストエフスキーは一種の寂静主義というか、つまり呪わしい生が破壊され、生が時間の歩みを止めて、永遠=瞬間の同一性に止揚される事によって救済に至るという事です。
 
 この、主体が自己を放棄する事によって救済に至るというのがジッドから見れば仏教的、つまり悟りを目指す僧侶に近いものと見えたわけです。これはなるほどと思いました。
 
 思い返して見るなら、確かにそうです。ドストエフスキーの小説において「商家のおかみさん」に対する憧れが語られたり、子供達を「天使」とみなす存在が確かにあります。それはドストエフスキー本人の視点が客体化されたものだと思いますが、ここでは、自意識の病から逃れられたものに憧れの視点が当てられています。商家のおかみさん、というのは民衆的なものの代表ですが、「私とは何か?」「何をなすべきか?」といった自意識の悩みから逃れられ、生活に埋没しているからこそ「商家のおかみさん」は羨ましい、という事になります。子供が天使であるのも、彼らはまだ自己というものにまつわる苦悩を持っていない為です。
 
 ですが、この憧れの視点はドストエフスキーにおいては矛盾に満ちたものです。ドストエフスキーは実際に「商家のおかみさん」になれる機会があったとしても、それを拒否した事でしょう。というのはドストエフスキーには苦悩を愛するという一面もあり、このアイロニカルな、矛盾に満ちた視点がドストエフスキーの魅力の一つになっています。
 
 ジッドはそうした救済の在り方をキリスト教的に取り上げてもいます。ドストエフスキーがカトリックを攻撃している事などです。カトリックは教会という実際的な組織を通して神の存在を感じますが、プロテスタントは直接的に聖書に向かい合う。ドストエフスキーのようなタイプの思想家が、カトリックよりもプロテスタントに近づくというのはある意味、当然と言えます。というのは、ドストエフスキーは心の奥底では無政府的な、アナーキーな思想への傾斜があり、それが若き日、彼がはまっていたマルクス主義と峻別されるのは、その先に自己廃棄としての神が感じられているからです。しかしそれは権威や制度による救済ではなかった。このあたりはパスカルやキルケゴールなんかとも共通するでしょう。
 
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 ジッドのドストエフスキー論について書こうと思ったんですが、実を言うと、期限が来て本は図書館に返してしまいした。それで、本を参考にしつつ書き進めるのが不可能になったので、ジッドに触発されて考えた事を急いで書いておく事にします。
 
 先に言ったようにジッドの、ドストエフスキーの描く救済は自己破棄的なものであり東洋的なものだという指摘がありました。私はそれを読んで色々思う所がありました。
 
 ドストエフスキーの小説に慣れ親しんでいる人ならピンと来るでしょうが、「罪と罰」以降のドストエフスキーにおいては、基本的に、ドラマは、作品が始まる以前に始まっていた事が示されています。決定的、重大な事柄は物語の始まる前に既に起こっています。
 
 そしてその因果が現在にまで伸びてきてドラマがスタートします。具体的には「悪霊」「白痴」がわかりやすいでしょう。どちらも、主人公は過去、外国にいてそこで何か決定的な事が起こったのが示されます。その因果が現在まで響いてきます。
 
 「罪と罰」においても、ラスコーリニコフは殺人思想を練り固めてから作品内に現れてきます。その思想自体は動かせないものとしてあります。これは、宿命論的な考えと言ってもいいですが、とにかく決定的な事は作品「以前」に起こってるのです。この事が作品内、つまり「現在」を生きる人々の動乱の元になります。
 
 私はこれは、例えば「オイディプス王」で神託が作品が始まる以前に決定的な意味を持っているのと同じような事柄と見ます。ただ、この類似性を述べ、人生の本質について考えるという思考はーーあまりにも長大かつ難解になるのでここではやりません。とにかく、ドストエフスキー作品にはそういう特徴があります。
 
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 それと、これは作品「後」ですが、ジッドの言うように、救済は自己破棄によってもたらされます。
 
 この救済はキリスト教的であり、ジッドの言うように仏教的とも考えられますが、いずれしろ自己の思念・自意識が止む所に救済があります。それで「商家のおかみさん」とか「子供達」が自意識の宿痾から逃れた存在として羨ましく思われる。ここにも特徴があります。
 
 整理しますと、作品の構造としては次のようになっているという事です。
 
 因果 | 自意識・物語 |自意識の破棄・救済
 作品外|  作品内   |作品外
    →→→作品時間→→→
 
 ここで大切だと思える事は、ドストエフスキーという作家はある点から自意識の「外側」を掴むに至ったという事です。それが自意識的小説の集大成「地下室の手記」の後だというのはわかりやすい点です。
 
 ここでドストエフスキーが、自意識の外に出たという事は、自意識の外側に過去からの因果を片方に見、もう一方は、未来にある、キリスト教的な、時間の外側にある時間とでもいうか、無時間的な救済をはっきりと掴んだ事を意味しています。この二つの「外部」に挟まれて内部の自意識のドラマは存在していると思います。
 
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 もう少し突っ込んで考えます。饗庭孝男の小林秀雄論に大いに啓発されました、小林秀雄もまた自意識のドラマを体感し、そこから出る事を模索していました。
 
 ボードレールにはまっていた小林が、自意識の「球体」に閉じ込められていた時、アルチュール・ランボーの「出発」の歌声を聴いた。その時、自意識の外側に出られるという開放感を彼は感じた事でしょう。小林秀雄が後にドストエフスキーに傾倒していくのは必然的だったと思います。
 
 そして、小林秀雄がドストエフスキー論を書きつつも、キリスト教的な部分は避け、その後に日本の伝統と接続しつつ、「物」「経験」に自意識が安らかに眠っていく姿を見たというのは、独特の軌跡を描いています。小林秀雄の歩いた道は、後に日本で文学をやる人間からすれば肯定するにせよ否定するにせよ、直視する必要があると私は感じています。
 
 話を戻すと、自意識の前に、既に自意識以前に発生している事柄、それが自意識の行方をも決定していくという見方は極めて重要だと思います。これは現代の人に言っても伝わらないと私は思っていますが、個人の意識の自由の外側に、その自由を規定しているのはある不自由性だと認識するのは、実は意識の力、精神の力であるという事です。これはドストエフスキー自身の思考過程…つまり、意識の諸力が強すぎるが為にそれ自身を破壊してしまうという、カント的な思考運動があるのではないかと思います。
 
 自意識は、それ以前のもので決定されているという事。そして未来においては、時間の破棄がある。この宗教的な解決はあくまでも「時間の外」にあるもの、作品外としての救済でなければなりません。ここにおいても、時間の延長に救済を見る現代性の宗教とは全く矛盾しています。
 
 時間の前にある因果と時間の外の救済。この二つについて論じるのはここではできませんが、トータルから言えば私はドストエフスキーの出した結論は正しかったと思っています。正確には「正しい」とか「正しくない」とかいう概念のもっと先まで彼はたどり着いたという事です。
 
 ジッドの指摘はそういう点に目を開かせてくれた、整理させてくれたという事で非常に参考になりました。現代の社会では、自己の自由、つまり内部意識の外側への実現化を救済にしようとしていますが、それは、トータルで言えば精神を鎖で繋ぐ結論に至るとは思っています。
 
 結論だけ書いておきますが、要するに、自由の最大の発現は、自らの不自由性を発見するという事にあります。ドストエフスキーはその不自由性の場所に立って、自我意識という自由の問題を作品内で縦横に展開できた。しかし、あそこまで徹底的に展開できたのは、彼が自意識の外側にある場所をよく知っていたからです。この場所は、宗教という見かけを装っていますが、それは現代人の嘲笑する宗教というようなものではなく、理性よりも、一段止揚された場所であるように思われます。また、そういう風に考えていくと、例えばジョルジュ・バタイユのような思想家もただの神秘思想家という定義では片付けられない、という事も考えられると思います。
 
 

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