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【文芸センス】太宰治『走れメロス』③暴君ディオニスは悪者か

 前回、作品の主人公であるメロスの心情を取りあげました。

 もちろん、それだけ読んでもこの作品は美しく、また読者に信念を貫く勇気を与えてくれますが、それだけでこの作品を名作とは呼べません。

 この記事では、『走れメロス』の深いテーマを探るとともに、そのテーマを体現するもう一人の重要人物ディオニスについて、掘り下げて考察します。

太宰治『走れメロス』

③暴君ディオニスは悪者か

青空文庫 太宰治『走れメロス』


太宰の意図

 ディオニスはこの作品で、典型的な暴君として描かれます。親族や家臣を殺し、我が意に従わぬ者を片っ端から処刑します。

 その行為自体はたしかに非道なものです。しかし、「ディオニス=正義のヒーローに倒される悪者」としてしまい、彼の内面に踏み込まないようであれば、それは単なる勧善懲悪の物語であって、文学作品ではありません。

 太宰ははっきりと、ディオニスは単なる悪人ではないと書いていますし、読者もそれを感じ取り、そこにある作者の意図を読み解くべきでしょう。

 私は久しぶりに『走れメロス』を読み、思った以上に太宰がディオニスの内心に踏み込んで描写していることに驚きました。読者のなかには、この作品では、ディオニスの過去や内面について深く語られていないと思う人もいるかもしれませんが、それは間違いです。

 物語の冒頭から、太宰はディオニスの人物像について、読書が間違った捉え方をしないよう、極めて慎重に描写しています。

いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。

作品序盤

 これは町にすむ老人の言葉ですが、はっきりと「ディオニスは乱心ではない」と述べています。人を殺すのですから乱心と言っても良さそうなものですが、太宰は老人の言葉を借りて、わざわざそれを否定しているのです。ここに、太宰の「ディオニスを頭のおかしい人として見ないでほしい」という読者へのメッセージが込められています。

 そして老人は、乱心を否定するだけでなく、「人を、信ずる事が出来ぬ」と述べます。人を信じることができない、つまり、人間不信です。すでに物語の冒頭で、太宰はディオニスの心の問題を端的に表しているのです。

人間不信

 ここでひとつ、注意しておかなければならないことがあります。それは、人間不信とは、人間を信じていることの裏返しであるということです。

 はじめから人を信じない人は、裏切られることもありません。人を信じるがゆえに裏切られ、やがて人間不信に陥るのです。その経過については、ディオニス自身が詳しく述べています。

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

作品序盤

 最後の「わしだって、平和を望んでいる」という言葉を、どのように捉えたでしょうか?ディオニスを単なる悪人と思っている人は、「嘘つき」「口先だけ」と感じたかもしれません。しかし、「人を信じて裏切られ、人間不信に陥った」という過去が、太宰がディオニスへ与えた人格でした。その意図をくみ取るなら、このディオニスの発言は決して嘘ではなく、彼の本心として読むべきでしょう。

 たしかに、ディオニスの過去は詳しく描かれていません。しかし、以上のような描写を踏まえると、彼の過去は容易に想像できます。

 ディオニスは優秀な王であり、平和や繁栄を願って、真に国や民衆のための政治を行いました。しかし、そんな崇高なディオニスの意志は裏切られ、その政治に従わぬばかりか、私欲を肥やすために、それを悪用するような者さえも現れます。

 そのときディオニスは、人間の裏の顔を覗き見ることとなりました。一見、正直で善良な人間を装い、そのくせ裏では、己の欲望のために、他人や社会全体を陥れる。そんな汚らわしき生き物が、人間の本性だったのです。しかもそれが、一部の臣下だけではなく、名もなき民衆もみな同じような生き物だと悟ったとき、ディオニスは全ての人間を信じられなくなったのではないでしょうか。

おまえには、わしの孤独がわからぬ。

作品序盤

口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。

作品序盤

人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

作品序盤

 これらの発言に、人間という生き物の悪しき顔を嫌というほど見てきたディオニスの、悲しい孤独が滲み出ています。

メロスとディオニス

 そんなディオニスをメロスは痛烈に非難します。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」

作品序盤

 しかし、そのメロスは、後にこのような言葉を口にします。

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。

作品中盤

 この言葉は、さきほどのディオニスの言葉「人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」と全く同じと言ってよいでしょう。メロスはディオニスを非難し、自らとセリヌンティウスの絆を誇っておきながら、やがてそのセリヌンティウスを裏切ろうとしているのです。

 つまり、メロスはディオニスがかつて歩んだ道と、まったく同じ道を歩んだということです。

 人を信じ、裏切り裏切られ、「人間とはそういうものだ」と悟った末に、もう人を信じることを放棄してしまう。メロスとディオニスの精神は、このとき完全に一致します。メロスは自らの身をもって、人を信じることの困難さに直面し、それゆえにディオニスの孤独な苦しみを理解するのです。

暴君の改心とメロスの成長

 その後メロスは清流によって信念を回復し、もういちど走り出します。

信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

作品終盤

 そんなメロスの信念にディオニスは心打たれ、悪王の衣を脱ぎ捨てます。

「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

作品終盤

 この言葉を受けたメロスは、なぜディオニスを許すのでしょうか?

 ディオニスを単なる悪者として読んでいる人は、そこを不思議に思うかもしれません。あるいは、「最後はみんな仲良し」という、漠然とした美談と捉えたかもしれません。

 しかし、許すのには明確な根拠があります。メロスとセリヌンティウスは、自分たちも友人を疑い、人を信じることを一度放棄したからこそ、ディオニスを許すのです。

 ディオニスが背負ってきた、国を治める責任の重みは、メロスとセリヌンティウスの約束の比ではありません。はじめメロスはそのスケールが理解できず、ディオニスを非難します。しかし、メロスは自身の体験をつうじて、ディオニスの背負ってきた重圧を理解しました。自らも責任の重みに苦しんだからこそ、ディオニスの苦しみも分かるのです。

 たしかにこの物語は、暴君ディオニスがメロスの信念に触れて考えを変えるという、改心の物語です。しかし、その一方で、統治者ディオニスの孤独な戦いを理解した、メロスの成長の物語でもあるということです。

 この作品のテーマは、ひとことで言えば「人を信じることの難しさと大切さ」です。人を信じることは、言葉でいうほど簡単なことではありません。責任と信頼はその人の心にのしかかり、その重荷を放棄したくなります。しかし、絶望に陥った人は自暴自棄になり、やがて人間不信に精神をむしばまれていきます。裏切り裏切られながら、それでも人間は、人を信じる道を歩まなくてはならないのです。

 その信念喪失と回復の過程を、メロスとディオニスふたりの立場から描くのが、この『走れメロス』の骨子なのです。

おわりに

 いっけん対立しているようにみえるメロスとディオニスの苦悩を描くことで、ふたりの隠された共通性を読者に気づかせ、「同じ悩みを抱えている者」として和解させたところに、『走れメロス』が持つ文学性があります。敵と味方を区別して、敵を倒す快感を読者に与える勧善懲悪の物語とは、ここが決定的に違うところです。

 この手法は、夏目漱石の『坊っちゃん』と似ています。『坊っちゃん』では、坊っちゃんと赤シャツという二人の人物の対立が描かれるのですが、この二人のの関係をつうじて、誰しもが人生において経験する、精神の変化や成長を描くのが『坊っちゃん』のテーマです。ぜひ『坊っちゃん』も、このような視点をもって読んでみてください。

おしらせ

 言葉の持つ力を掘り起こし、文章表現に活かす『霊石典』を編集しています。言葉について深く学びたい方は、ぜひ、あわせてお読みください。

 この記事の他にも、過去にたくさんの文芸学習の記事を書いています。こちらからお読みください。


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