見出し画像

【対話の参考書】 「対話が重要だ」というとき、「対話」の意味するところ

 こんにちは。文章を書くのが好きなのに、相変わらず間が空いてしまいました、山田です。誰かこの現象に一緒に名前を付けませんか?

 本記事では対話を土台とした人生の学校オンライン版を運営したり、対話を用いた対人支援を行ったりしている目線から、日頃の疑問点への回答を試みようと思います。

 対話というのは、ここ数年でバズワードとなっています。書店に平積みされている本のタイトルや帯レベルでも散見されるようになりました。


*対話の広がりと懸念*
 ただ、「概念が広がる」とあまねく付帯する、「定義や理解の幅や深さにばらつきが生じる」事象も同様によく見受けられます。そしてそれは、一応プロフェッショナルとして生きていかんとする身からは看過できない。

 そういうわけで今回は、「対話ってなんだろう?」という問いに対して、ある見方から書き上げようと思っています。あくまで素材として、それを元に対話が起こればという願いを持って筆を取りました。ぜひ、お付き合いください。



「対話」の解釈難についての論点整理

*対話*
 まず、対話に関する信頼性の高い引用からはじめます。

”双方向のコミュニケーションを通して、人々の間に意味が流れるような話し合い。当然とされている前提を、対話を通しては探求することで、新たに意味づけがなされ、自分たちがもつ前提を発見していく。”
ジャルバース・R・ブッシュ 他「対話型組織開発 その理論的系譜と実践」

 すでに対話という概念の難しさが現れています。対話という抽象的な概念を説明するにあたって用いられる「コミュニケーション」「意味」「当然とされている前提」「意味づけ」という語彙に関しても理解・解釈の幅と深さにばらつきが生まれるからです。ここに、「対話」の解釈の難しさがあると思うのです。(他のあらゆる抽象概念が抱えるのと同様の問題です)

 そのため、本記事では「対話」の定義自体は上の引用に従いつつ、その各要素の語彙に対して、理論と経験からなるべく公平に伝えることを目的とした構成となります。




論点1:「コミュニケーション」とは何か?

*1-1:コミュニケーションの定義* 
 コミュニケーション"communication"の語源はラテン語で「共通の」を意味する"communis"です。コミュニケーションは、言葉によって想起されるイメージ通りかもしれませんが、「伝達によって共通にさせる」といった意味合いがあります。

 例えば、「コミュニケーションコストが高い」「低い」と大人は言います。これは明らかにコミュニケーションという概念に「共通化」を求めているように思えます。「コストが高い」という表現には、共通部分が少ないことや、重要な領域が重なっていないことが推測されます。

 まとめると、コミュニケーションは「共通化を意図する伝達」と言った捉え方ができそうです。

 そして対話の引用では「双方向のコミュニケーション」とあります。そのため、対話では双方向に「共通化を意図する伝達」を行うことが、一つの要素となってくることがわかります。


*1-2:コミュニケーションは出来事である*
 また、ニクラス・ルーマンは社会システム理論によってコミュニケーションを「個人の持つ心的システム」と「集団(社会)の持つコミュニケーションシステム」に分け、心的システムは直接理解ができないこと、そのためコミュニケーションを通して伝達や理解を図ることを理論化しました。

 そしてコミュニケーションシステムが「作動上閉じていること」、つまりそのシステムの中だけで生成や連鎖が行われる固有の領域であるとしています。(マニアックですね)

 とにかく、ルーマンが考えるコミュニケーションとは、心的システムの間に生じる「出来事」と捉えたわけです。

スクリーンショット 2021-01-29 16.41.30

では、双方向に共通化を意図する伝達を行うという出来事である「コミュニケーション」を通して「意味が流れる」とはどういうことなのでしょうか?



論点2:「意味が流れる」とは何か?

*2-1:対話(dialog)の語源と解釈*
 対話(dialog)について考えるとき、しばしば「〜を通して」の"dia"と「言葉(の意味)」の"logos"で説明されます。このような過程を経て、「双方向のコミュニケーションによって、意味が流れる」と解釈されるのです。

 ある言葉があって、一方にまたある言葉があるとき、その2つの間に意味が流れます。感覚的な部分が大きいかもしれませんが、ご自身の経験と照らしてピンと来られるでしょうか?少し踏み込むならば、意味の流れとは「新しい理解」と言えるかと思います。


*2-2:新しい理解*
 AとBという意見があったときに、古典的な議論(discussion)では、勝敗を決めます。"debate"の方が近いイメージかもしれません。対話との対比で語られる議論は、ゼロサムゲーム(プレーヤーの総和が0となるゲーム。転じて、勝ち負けがハッキリしている)で説明がされます。

 一方対話とは、非ゼロサムゲーム。やり方によって双方にプラスで、総和がゼロ以上になる。つまり、AとBの言う意見があったときに、AかBか決めるのではなく、A+bやB+aという結論を取ったり、AもBも含むCという新しい選択肢を模索するのが対話的な姿勢です。これが「新しい理解」すなわち「意味が流れる」と言えるでしょう。

 ここまでの確認によって、対話の定義の序盤「双方向のコミュニケーションを通して、人々の間に意味が流れるような話し合い。」が少し見えてきたと思います。

「双方向の共通化を意図する伝達によって、個人(心的システム)の間に新たな理解が生まれるような話し合い。」

と言えるのではないでしょうか。



論点3:「当然とされている前提(根本の想定)」とは何か?

*3-0:「前提の見直し」が対話の十分条件*
 後半の文においては、「前提」という言葉が2回登場します。対話の定義というより、対話のメリットについて語られているとも考えらます。もしくは対話の必要条件というより、十分条件に思えます。

 新たな理解が生まれることは対話の必要条件であり、更に「前提の見直し」が個人に起こることによって完成する、といったイメージでしょうか。


*3-1:氷山モデルによる「前提」の解釈*
 それではこの前提というのは、何を意味するのでしょうか?フロイトに起因する氷山モデルにおいては、出来事はいわば氷山の一角であるとされます。その背景、水面下には膨大な上位構造があります。

 出来事は行動パターンによって規定され、行動パターンは構造によって規定され、構造は無意識に持つ前提によって規定されるとされます。

画像1

 ニクラス・ルーマンの社会システム理論に則れば、「コミュニケーションは出来事」でした。であれば、コミュニケーションの前提、水面下には重厚な氷山が広がっていることになります。

 その根本には、前提があります。これを「根本の想定」とします。個人(心的システム)が人生の中で学習してきたあらゆる価値観や信念、宗教、社会通念などが「根本の想定」を複合的に形成しています。(そのため、一文で言語化するなんてことはとてもできません。ある人間について、一言では紹介しきれないのと同様に)


*3-2:「根本の想定」を明らかにする*
 これらを踏まえると、対話では「コミュニケーションシステムの持つ根本の想定」と「個人(心的システム)の持つ根本の想定」について、発見していくことが重要と言えます。

 精神分析での治療においては、無意識下で抑圧された記憶を意識化するプロセスを辿ります。対話においても個人における治療のように、個人と関係性の無意識にある「根本の想定」を意識化する作業を行います。これによって個人と関係性がヘルシーになることが期待できるのも、対話の一つの側面と言えます。


*3-3:対話の可能性*
 そして、個人(心的システム)が持つ「根本の想定」が明らかになると、その言語化され意識化された2つの「根本の想定」の間にも意味が流れ、新しい理解がなされ始めます。「対立する2つの宗教」から共存可能で統合的な新しい解釈に生まれ変わります。

 思うに、ここに行き着くことが対話を対話足らしめられる、条件なのではないかと思うのです。



次の問題提起

*対話の生成に重要な要素*
 それでは、こうした対話が生成される上で意識と行動においては何をどう変えればいいのかというのが気になるところです。ここに関しては、本記事で言及している「新たな理解」に加えて「内側から聴く・感じる」や「多声性(ポリフォニー)」などが挙げられるのですが、文字数上別の記事と機会に譲ろうと思います。


*「対話」の広がりと懸念*
 どのように本記事を締めくくるのか、というと、何か問いの形に収束しそうです。「対話」という言葉を使うとき、それが一部の強くエネルギッシュなクラスターとの対比で用いられがちな傾向があるのではないかという危惧です。

 あるいは、根本の想定を見直すことで他者と新たな理解を生み出す思想と技術である対話が、「対話好き」とそれ以外を分断し、似たもの同士で身を寄せて「対話的でない人」を揶揄する都合の良いシェルターに成り下がっていないかということです。


*「つながりを思い出すために繋がり直す」ことを忘れない*
 何かの概念が浸透するとき、本質が希釈されていくことは、ある意味仕方のないことかと思います。インテリジェンスの皮を被ったのうそぶきばかりが持て囃され、「本質」が理解されないことを嘆いても、分断は加速するばかりです。どんな人にでも可能な「体験」として対話を届けることに、対話を標榜する職業人の使命があるのではないかと、強い自戒と共に感じております。

 対話が、「対話的な人」にとって「そうでない人」を分断し安住するツールになっていないか。今一度ここに危機感を持って、必要な仕事をしていこうと考えます。



*追伸*
 最後までお読みいただきありがとうございました。「対話」に関するより公平な対話の一助となれば嬉しいです。協力いただけるなら、ぜひシェアをお願い致します。


*おまけ告知*
👇対話を実践的に学びたい!とお思いの方は、生き方テラコヤまでどうぞ!3月の体験入学生であれば、枠を予約することが可能です。👇(下記は2月版のアイキャッチですが、LINE@に「3月の体験希望」とご連絡いただけると結構です!)

生き方テラコヤ体験


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?