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読書感想文 「訂正可能性の哲学」を読んで 開かれと多孔的な空間

東浩紀 著 「訂正可能性の哲学」を読みました。感想を書いていきたいと思います。

「訂正可能性の哲学」のなかで家族のことが書かれています。この本に書かれているように「観光客の哲学」の後半で唐突とも言える展開で家族が出てきたからです。家族といえば癒やしの人間の集まりと感じる人もいます。逆に毒親という言葉が流行るように、人間の闘争の場となることもしばしばです。家族といえば閉鎖的なものであり、破壊すべきという言説も多いです。

家族とは典型的な内と外を分けるものであり、内のものは守られ、外のものは攻撃の対象になります。内と外とは友と敵とも重なることになります。内部と外部を区別するのが家族や仲間内の悪い所と非難されます。それに対し社会とはもっと開かれていて多様なものを包摂すると考えられています。だから家族は閉じられていて、開かれた社会が望ましいということが言われたりします。

でもほとんどの家族は大人は会社で働いて、給料をもらって生活しています。お金によって生産された商品であるさまざまなものやサービスを得ることによって生活は成り立っています。家族とは決して孤立して成り立っているわけではありません。

ハイデガーは存在分析として道具的存在を語りました。私の世界を構成する道具的存在も、もともとは現代社会では商品であったのであり、AMAZONで買われたりしたものです。例えば料理するのに必須のフライパンであっても誰かが作り誰かが売っているのです。世界はつねに孔が空いていてその中をものや、記号が出入りするのです。

そうして孔を通るものを改めて見つめて、閉鎖性と開放性を考えるという道があります。穴とは果たして存在なのか、それとも欠損なのか難しいですが、それはまた別の話です。

「訂正可能性の哲学」ではそれとは別の開かれを描いています。ハイデガーとならぶ20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論です。ここではゲームの規則とは何かという問題です。クリピキのクワス算を用いて説明しています。3+2=5これは普通です。では3+6=5となっていたらどうでしょう。それは違うだろうとツッコミが入ります。でもこれが正しいのだと言いはる人がいます。足して5以上は全て5という規則なのだと勝手に言い出すのです。これを論理的には排除できないというのがクリピキの議論です。つまり規則とはつねに事後的にしか見出すことはできず、つねにほかの規則を持ち出される可能性があります。

ゲームの規則とはそういうものであり、訂正される可能性のある、開かれたものだという議論です。ゲームとは閉じられているようで、開かれている。

例えば祭りというものを考えてみます。私の子供の頃のお祭りとは親戚をよんで、みんなで飲み食いするのが習わしでした。私はお小遣いをもらって神社でている店に言ってあれを買おうか、それともこれを買おうかと迷ったものです。いまも神社のお祭りはあります。でもほとんどの人が親戚を呼んだりしません。準備が大変なことも要因だったと思います。それにとは別に町内で箕輪祭りとして、人を集める催し物が行われます。町内の人が踊ったりします。

同じ祭りとなっています。しかし全く別物です。私はそれを非難したいのではありません。祭りという言葉が同じでゲームの規則が変わったのです。そしていまの祭りから遡行的に昔の祭りが考えられるのです。伝統の内に配置されるのです。

祭りについて書くことが伝統を作っていくことになるのです。私もこの町について書くことがあります。付け加えることによって、新たに町を創造することになるからです。それがせめてもの私のできることです。

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