おじさんと承認について
ひとはなぜ「認められたい」のか を読んだので感想を書きたいと思います。
私もいい年であり、おじさんです。もう一昔前ならおじいさんにちかいです。おじさんの評判は悪いです。曰く、成功体験にあぐらをかき、アップデートができずに足手まとい。そのくせ威張っている。権威を振りかざす。さんざんな言いわれかたです。でもどうしてこうなっているのかといえば規範の体現者だからではないでしょうか。少し長いですが引用してみます。
承認とは他者あるいは、自身で認められることです。この本では認められるという言葉よりも、肯定されると表現したほうがいいかもしれません。仲間と認められるためにはその仲間内の規範めいたものに同調しなくてはなりません。ただその規範めいたものが合理的な規範であればいいのですが、いじめを行い、行わないものをさらにいじめるなどの規範を持っている場合もあります。それは普遍的とは言えません。
引用した分析は説得力があります。規範とはルールとも言いかえられます。
自らがしたいことを認識することは自由であることの前提条件です。これをしたら楽しい、喜びがある。この感情は寂しいである。これは遠ざけたい。私の欲望はこれだ。などと感じられなければ自由に行動する意味がありません。それを探っていくのも自己の発見です。しかし感情にまかせて行動すれば上手く行くというものでもありません。
例えば、商店に行ってこれがほしい、だから黙って持っていってしまおう。などと短絡的な考えでは幸せになれないでしょう。そこには計算というか、合理性というものも重要な位置をしめます。理性と呼んでいいかもしれません。
ドルーズは「スピノザ」の本の中で書いています。
でも今は規範は古臭い、理性などどうでもいい、という感じなのかもしれません。でもおじさんである私はそれは違うのではないかと感じてしまいます。若者が古い価値観に違和感を持つのはわかります。でも短絡的であれば、幸せを遠ざけることになるでしょう。
承認をめぐってはSNSの隆盛により盛んに語られました。でもこの本は承認ということから自らを内省し喜びを見つけ、そこに普遍という問題もまたあると感じさせる本でした。
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