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映画感想文 バブル について 虚構の中の重力

 映画の「バブル」について書いてみたい。バブルは近未来の話で水没した東京が舞台になっている。水没した東京で若者がパルクールを使った競技をして暮らしている。パルクールでは走る・跳ぶ・登るといった動作をもとに、様々な体の動かし方をする。高所から飛び降りたり、のぼっていったりする。身体とはこんなこともできるのかと驚かされる。

この映画ではパルクールをメインにし、映像表現がされる。見ていると目が回るような映像の連続だ。思わず見ている側の体も動いていしまう。アクション映画は語ることが難しい。アクション映画はゲームに近いからだ。ゲームというのは身体感覚にダイレクトにつながっている。

例えばスーパーマリオブラザーズというゲームを考えてみる。ボタンを押すとジャンプする。そしてしばらくすると落下を始める。マリオは放物線を描きながら落下していく。ときに障害物にあたったり、敵にあたって、一回ミスになる。ロストした効果音が流れ、あーとため息をつく。ゲームは想像力の世界のなか、重力などなくてもいい。わざわざプログラマーが重力をモデリングして、発生させている。何もないところに重力をシュミレーションする。

私達の身体には重力がしみついていて、夢の中でも落下する。夢の中で飛ぶ夢を見ることがある。不安定でフラフラ飛んでいると、急に落下しだす。現実ではそんな高さから落下したことはないにもかかわらず、腹がスーとしていき、恐怖を感じる。なんとか止めなければと考える。とっさに手が出て送電線をつかむ。電線は大きくしなり落下速度が低下する。止まったと安堵する。夢の中の落下とマリオの落下はつながってる。

落ちる速度や、落ちだすとただ重力に任せて落ちていく無力感も、似ている。ゲームをつくる人はジャンプの速度や虚構の中の重力の強さを注意をはらいながら作っているに違いない。重力は快感と恐怖のどちらも与え、不安と愉悦の間を行き来する。あげて落とすというお笑いの基本ともにている。

言葉は身体感覚には遠いところがある。だからアクション映画は語るのが難しい。気持ちいいとしか語れないことが多い。バブルという映画も、重力のないアニメという世界に重力を発生させる。私はジャンプし、宙返りをしながら落下する。もっと高く。もっと速く走り。ビルを駆け上る。

重力は言葉にもまた作用している。言葉にも重さがあり、死は重い言葉の代表だ。その重力の中をどうジャンプし、どう落下するか、それが文学だと私は思う。

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