見出し画像

私の町は人口がほとんどかわらず。でも書くことは誕生させることだと思う。

 私はある程度大きな事を考えるときに、私の住んでいる町はどうだろうと考える。日本というのは大きすぎてよくわからない。統計で見るにしても平均で見れば均されてしまい、都会と田舎の違いはなくなってしまう。細かく人口で規模の大きいものなどを見ていくことはできても、それでも地域差は見えなくなってしまう。それで身近でよく知っている町はどうだろうと考える。

私の住んでいる町は長野県の南部、伊那地方にある。長野県と言うと雪がたくさん降るとイメージする人がいるかもしれない。でもこの地方に雪はあまり降らない。スキー場はあるが、寒さを利用して人口降雪機でスキー場を運営している。寒さは厳しく、最低気温は−10℃位が普通だ。

町の人口はほぼ25000人くらい。日本の田舎なので、高齢化率は30%を超えている。高齢化率というのは65歳以上の人口が全人口のどれくらいを占めるかという割合だ。15歳から65歳までは生産年齢人口になる。65歳といえば老人という感じがするかもしれない。でもまわりの人間を見ていると元気な人が多い。まだまだ働ける人のほうが多いでしょう。100歳以上が19人いる。人生100年時代と言われるが、100歳以上生きるのはまだまだ稀だ。

2022年では出生数は138人、死亡者は313人、自然人口増減はマイナス75人ということになる。ただ町の外から移転する人もいるし出ていく人もいるので、社会的増減は173人の増加で人口は2人マイナスということになる。

138人も313人も数字で見れば単なる数字に過ぎない。でも138人の赤ん坊が生まれて、それぞれに親がいることを考えると不思議な感じもする。例えば

わからないんだけど、要するに、私の知らなかった世界ですよ。うん。それを教えてもらったんです。うん。知らなかった世界だとか、ものの見方であるとか。そういうことを。だから知らなくて、結果として、ねえ、子どもたちを支援したって思ったのに害してたっていうことはあるんだけれども、本当にそういうことがあるっていうことは、私、本当に知らなかったのでね。だから、そういうことに気づかせてもらったというか。(村上 二〇二一:七六)

「子どもたちがつくる町─大阪・西成の子育て支援」

私は子供を持たないけれどきっと教えられることも多いだろうと思う。子供の数を数えれば138人となるけれど、きっとそれぞれの形があるのだろう。男と女もあれば、裕福な家庭もあれば貧乏の家庭もある。それを個別性といえばそうとも言えるかもしれない。でも感覚的にはもっと違うことであるようにも思える。

経済の用語で物消費とコト消費という言葉がある。物消費は文字どうり物を消費することで、コト消費は旅行が典型的でものではなく経験を消費するという考え方だ。哲学の世界には出来事という言葉がある。出来事はあり得たかもしれないし、そうでないこともできた、それでも起きたことが出来事である。出来事は事件とも言いかえられるかもしれない。物そのものではなく起こったことが出来事なのだ。過去とは出来事の集積だ。出来事は日付を持っているという。誕生とは誕生日という日付を持った出来事なのだ。

出来事とは紙の上でも起こるのだ。紙に文字を書き込むことそれもまた出来事なのだ。しょせん紙の上に過ぎないと人は言うだろう。何かを誕生させるために、私はノートにボールペンで、書くように記してみよう。

そこは冬の山だった。岩だらけで背の低い木がまばらに生えているだけの殺風景な景色だ。雪もつもりだしていた。動くものは山に立ちこめる霧のような雲だけだ。
気温はどんどん下がっていく。この軽装できたのが悔やまれた。目指すはゲートだけだ。ゲートが出現したという報告があったのが3日前、ゲートと呼んでいるが実際はただの穴だ。何もないただの穴。周囲は確かにいままでの山の景色なのだが、そこだけ歪んだように岩肌に穴があいている。
その穴の中には何があるのか、どこかに通じているのか、どうして何もないのか、全てが謎だった。ただその穴の中に入ると何でも望みがかなうという。望むとは言葉で表現できるのだろうか。食べたいものを思い描くこと、それが望むことだろうか。それとも無意識みたいなものなのだろうか。それでも望みはかなうという。

誕生と死。二つが対になって語られることも多い。でも私は二つが対称だとは思わない。誕生したものは死ぬことはあっても滅びることはないのだ。死は、誕生したという出来事をなくすことにはならないから。だから不滅なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?