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【016】「畳を降りる」還暦のパラ柔道家・松本義和の決断(上)

■前回から引き続き

 「長居・舞洲スポーツセンターだより」2024年3月号の内容を、前回のnoteでお伝えしました! 【015】長居・舞洲センターだより3月号出ました! 今回は、その予告編を受けての本編です!
 ※トップ写真は、2023年12月に大阪市住吉区で開かれた講演会より。

■パリへの望み消え

 松本義和(まつもと・よしかず)、61歳。過去3回のパラリンピックに出場し、柔道(視覚障害)でシドニー2000大会で銅メダル、アテネ2004大会では日本選手団の旗手、そして東京2020(+1)大会で、4大会(17年)ぶりに出場を果たした柔道家が、「畳を降りる」決断をしました。今年のパリ2024パラリンピック出場を目指してきましたが、2023年12月5日に東京で開かれた国際大会で敗れ、パリ大会出場のためのポイントが獲得できませんでした。大会4日後の12月9日には、長年応援してきてくれた人たちに、1000字を超えるメールを送り、「現役引退」を決めた思いを伝えました。
 大阪市長居障がい者スポーツセンターを約40年利用してくださっている松本さんは、日本ブラインド柔道界の宝の一人でもあります。その方から届いたメールを読み返し、私は今、初めてお会いした24年前=まだ20世紀だったころを思い出していました。

■運動部所属記者がスポーツ面に書いた(もしかしたら初めての)パラリンピック選手紹介の連載記事

 西暦2000年前後、日本の大手マスコミは、新聞でも放送でも、障がい者による競技スポーツを、運動面やスポーツニュースのコーナーで報じることが、まだ、ほとんどありませんでした。直前に長野1998冬季パラリンピックが開かれ、障がいのあるアスリートの活躍を、国内でも見聞きする経験を得ていたにもかかわらず、です。
 私は当時、新聞社でスポーツ取材を担当する「運動部」という部署に所属していました。同じ部の先輩記者から「障害者のスポーツは、運動面に載らないんだから、そんな取材に時間を割くな」といったことを言われたこともあります。
 しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」とは、よく言ったものです。上司の中に、「夕刊のスポーツ面で、シドニーパラに関する連載をやってみては?」と助言してくれた人がいました。この企画は「“もう一つ”のシドニー:メダル目指して」というタイトルが付き、2000年7月から8月にかけ、毎日新聞大阪本社が発行する夕刊に連載されました。紹介したのは、車いすテニス・大前千代子車いすバスケットボール・新谷広文アーチェリー・鈴木一二美陸上競技やり投げ・木谷美紀、そして柔道・松本義和の5選手でした。
 ※上に書いてある各選手の名前をクリックすると、国際パラリンピック委員会(IPC)のウェブサイトに載っている選手紹介サイト(英語)に飛びます。

■「自己初、おそらく最後のパラリンピックに挑む」と紹介

 松本さんを紹介した記事(2000年8月18日毎日新聞大阪本社夕刊「ワイド・ナウ」面掲載)を今、読み返すと、多くのことを思い出しました。松本さんはまだ38歳。パラリンピックは初出場で、「シドニーの最初の試合が、現役最後の5分間かもしれない」という気持ちで、男子7階級あるうち2番に重い100キロ級に出場すると決まっていました。
 小学校で野球、中学校はサッカー、高校でソフトテニスをしていた松本少年でしたが、高校2年の時、緑内障を患います。遠近が分からなくなり、20歳で全盲になりました。その後、盲学校に入り直し、しんきゅう・マッサージ師の資格を取ります。柔道は、このころに始めました。
 取材の際、「決勝に残りたい」「勝って、CMに出たい」と私に語っていた松本さんは、なんと、初戦で負けてしまいます。ところが、敗者復活戦の3試合を勝ち上がり、銅メダルを勝ち取ったのです。
 
当時、「パラリンピックは、運動部の仕事ではない」と言われていました。そして、私は、その「運動部」所属でした。当然ながら現地取材はできず、このことを、大阪にいて、(まだ数少なかった)報道で知りました。その時の私は、記者というよりは、「最近仲良くなった3歳上の兄ちゃん」的な存在となっていた松本さんがメダリストになったことに、「悔しい。でも、良かった!」と感じていました。
 そのころの私は「スポーツであるパラリンピックを取材しようとしない部署から離れた方が、障がいのある人のスポーツ活動を自由に取材できるだろう」と考えていました。運動部から異動させてほしいと、部長に強く訴えたところ、部長からは慰留されました。でも、「国際的な競技スポーツであるパラリンピックの取材をしないで、平然としていられる記者が大多数をしめる運動部から出してもらえないなら、会社を辞めます」と、譲りませんでした。そして、シドニーパラリンピック(2000年10月18日~29日)が開幕する直前に、「希望通り」運動部から離れました。配属先は、見出しやレイアウトを考える「編集制作センター」(一般的には「整理部」と呼ばれる)部署でした。このセンターに所属する記者は、(当時は)自分で取材することは少なく、他の記者が書いた原稿を読み、紙面づくりをしていました。

■Facebookで縁が再びつながった!

 取材の現場を離れると、やはり、取材先の方とも疎遠になるものです。自らの意思で、取材現場から飛び出した私でしたが、残念ながら、松本さんとも、長く連絡を取り合わない日々が続きました。それを補ってくれたのは、Facebookでした。シドニーパラから14年後。2014年11月に、共通の知人のタイムラインで、松本さんの書きこみを偶然見つけたのです。私は、すぐに松本さんに友達申請し、メッセージを送りました。覚えておられるか、恐る恐る送ったメッセージですが、松本さんからはこんな返事が来ました。

 お久しぶりですねえ。 私は今も柔道を続けています。 来週末の11月24日も東京の講道館で全国大会があって出場します。 いまだに現役(のつもり)です。何とかリオパラリンピックに出場できないかと思っていますが、ちょっとハードルが高そうです。 でも、チャレンジだけはしていきたいと考えています。 なにはともあれ、FB でもよろしくです。

■再会は、講道館

 松本さんはこの時、52歳。50歳を超えた柔道家が、「パラリンピックを目指す」とあっさりと伝えてきたことに、私は本当に驚きました。そして、心から応援したいと思いました。
 実際に会えたのは、2015年11月でした。上に載せた松本さんからのメッセージの「来週末の11月」から、ちょうど1年後。私は、東京の講道館での第30回全日本視覚障害者柔道大会を見に行くことになったのです。この年の春から、私は東京2020パラリンピックを見据えて、東京で勤務していたのです。この大会で松本さんは男子100キロ級で見事優勝を果たしました。
 表彰式の後、松本さんに直接声をかけました。「あ、山口さん! 久しぶりやね~!」 取材してから15年。あの時と変わらぬ大きな声で、試合中とは全く違う柔らかい笑みを添えて、語り掛けてくれました。

第30回全日本視覚障害者柔道大会男子100キロ級で優勝した松本義和=東京都文京区の講道館で2015年11月、いちろー撮影

(中編に続く)

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