醜形恐怖症(強迫性障害)

10代の後半から自分の顔が醜くて仕方なく感じるようになった。どうしても受け入れられなくて、何度も鏡を見ては絶望して、実際に顔を掻きむしったり、顔面を額から顎の下まで全部削ぎ落として別のもっとマシな顔を貼り付ける妄想をしたりしていた。

小学4年生のある時期、いじめなんていう大それたものではなくて、たまたまそのときの「いじり」の対象が自分のギョロッと大きく、少し離れた目に向けられて、「カエルみたい」と笑われた。
一つ下の友達から「おいカエル」と嘲笑われて、何も言い返せずただうつむいたあのときの心境は今でもリアルに思い出せる。

「あぁ、自分の顔は変なんだ」という呪いが、以来心にこびりついてしまった。

ピークで症状が酷かったのは留学していた大学の時期。
環境の変化も後押しして、外に出ることが怖くなってしまった。
「あの変な顔の英語もロクに喋れないアジア人」と嘲笑されている被害妄想に取りつかれて、部屋から、どころかベッドからすら出ることができなくなってしまった。

「みんなどうやって生きているんだろう」と心底不思議だった。
「自分を生きることについて、いつ受け入れたんだろう」

いつの間にか乗り物に乗せられている。「はい、じゃああなたはこの人生を生きなさい」との指示も具体的な説明もなしに、止まることのない乗り物に勝手に乗せられる。その乗り物は「他の乗り物がいい」「あっちのレールに乗りたかった」という気持ちを無視してただただ走り続ける。

「自分が嫌いな人は、どうやって生きればいいんだろう」

どこにも投げる当てのないこの苦しい問いが、心の奥深くに沈んで恐ろしい考えをいとも簡単に拾ってくる。

「あぁ、もう死んじゃえばいいか」

死にたくなんかなかった。むしろ生きたい。けれど自分として生き続けることに絶望していた。自分として生まれたくなかった。他の誰かの人生を生きたかった。

初めてネットで「醜形恐怖症」という強迫性障害のことを知ったときには本当に救われた心地がした。
ちゃんと自分が心の病気であることが分かって、不思議と「それなら大丈夫かもしれない」と思えるようになった。

自分のこの病気を知って以来、運転中にハンドルを思いっきり回して終わりにしてしまおうかと本気で思いつくくらいには激しい浮き沈みを繰り返しながら早10年近く経っている。
ここ最近はうまく付き合えてきている気がしていたけれど、そう思ったら突然また朝が来なければと願って夜を過ごしている自分がいる。

とにかく書けてよかった。書けるところにまで来たんだと思えている。少なくとも一番しんどかった時期に比べたら少しは自分を受け入れられている。

これを読んだ人に、自分を好きになってほしい、なんていう綺麗事は言えない。どの口が、もいいところ。
ただ、自分はまだ乗り物に乗っている。レールを外れずに、走り続ける乗り物になんとか、なんとかしがみついてる。






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