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【第42回】未成年者④ 限定的なパターナリスティックな制約 青少年保護育成条例 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

最高裁の合憲判決

最高裁は、「……本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない」としたうえで、「……青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法21条1項に違反するものではない」としました(最判平元.9.19)。

残念ながら、J.S.ミルの『自由論』に比べて、言葉は平易ですが、論理は相当に分かりにくいものと言わざるをえません。

最高裁の論理について考える

まず、「……本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、」の部分ですが、そのような結論を導く、実証的された研究結果は存在しないようです。時折、事件が起きると、たとえばアダルトビデオに影響を受けたということが報じられることがありますから、印象としては「そうなんだろうなぁ」と感じる人も少なくないでしょう。

しかし注意しなければいけないのは、この問題に限りませんが、ある事件を犯した人物の背景を一般化できるのか、ということです。

漫画ドカベンに登場するイワキ選手は、悪球打ちの名手で、クソボールをホームランするくせに、ど真ん中の球を空振りして三振してしまうという愛すべきキャラクターです。じゃあ、イワキが三振したから、決め球はど真ん中のストレートだったに違いないというのは、データとして正しいかどうかは別問題です。いや、イワキ選手なら、データとして正しいかもしれないですね。たとえが不適切だったかも。まぁ、悪球打ちの選手という一般論に置き換えて想像してみてください。

わかりにくい論理展開

ここからは推論なのですが、最高裁の判例は、このことについて、丸(読点)ではなく、点(句点)で次のフレーズに移行しています。そうだとすると、実証的なデータはないことは知ったうえで、論理を続けているようにも見えます。

「……性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。」

ここがわからないポイントです。「有害図書」によって、青少年が「性的な逸脱行為や残虐な行為」をするようになるのだ、とは、さすがに最高裁も認めていないようです。仮に、そのような行為に出るのだということであれば、他者加害の危険を指摘していることになり、未成年者保護という話ではなくなってきます。

問題は、それを「容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。」というところです。

未成年者が、『有害図書』を受領することによって、「性に関する価値観に悪い影響」を与えるので、未成年者を保護しなければならないのだということであれば、(それが実証できればですが)限定的なパターナリスティックな制約という理論と親和性があります。しかし、そのような事実が認められるというのではなく、突如としてそのような行為を「容認する風潮の助長につながる」という論理になっています。

ここに至ると、私は論理を追えなくなります。まず、未成年者がいわゆる「有害図書」に接しました、それが原因で「性に対する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながる」のでしょうか。ホラー映画やサスペンスドラマに接しても殺人を肯定する風潮にはつながらないと思います。むしろ、性表現に接すると性犯罪が減るとする研究成果が、ジェンダー・アイデンティティーの起源についての研究で有名なアメリカのミルトン・ダイアモンド(Milton Diamond、1934~)先生と、日本の内山絢子先生から発表されています( 「Pornography, Rape and Sex Crimes in Japan」『 International Journal of Law and Psychiatry 22(1)』1頁。1999年)。

とどめは、これが「既に社会共通の認識になっているといってよい」とされているのですが、この不可解なロジックが社会共通の認識だというのは、さすがに言い過ぎではないでしょうか。

百歩譲って、これを肯定したとしても、これでは未成年者の情報受領権を制約する根拠は「性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長」であって、パターナリスティックな制約ではないということになります。表現の自由―情報の受領権―の制限の根拠がパターナリスティックな制約ではないのだとすれば、他人の人権を侵害していることが理由でなければならないはずですが、ここで述べられているのは「風潮の助長」にすぎません。したがって、規制は憲法違反と考えるほうが自然です。

残念ながら、パターナリズムによる制限だとする最高裁の理由づけは失敗しているといわざるを得ないと考えます。


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