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神様と心を一つにする人:聖書をめぐる旅 1/13

1/13(木)
今日のタイトルは、神様が求めている人間の姿から考えました。神様と心を一つにする人、そして神様に100%信頼する人を神様は求めています。 

歴代誌下16章 

7そのとき、先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った。「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍隊はあなたの支配を離れる。
12アサはその治世第三十九年に足の病にかかり、その病は極めて重かった。その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った。
14彼はダビデの町に掘っておいた墓に葬られた。人々は特別な技術で混ぜ合わせた種々の香料の満ちた棺に彼を納め、また彼のために非常に大きな火をたいた。


→終わりよければすべてよしという言葉がありますが、偶像を取り除き、主に立ち返る国造りをしていたアサ王の最後は、ちょっと残念な結果になりました。今まで、自軍の倍以上の敵に対して、主に祈り勝利してきたのに、治世36年目に隣国のイスラエルが攻めてきたときは、主ではなく、イスラエルの背後の国アラムに助けを求めました。このことを主は良しとされませんでした。
 主は熱情の神様です。
100%主に信頼する人を求めておられます

9主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。」

その後、アサ王は足を患いますが、最後の最後まで主を求めずに、医者に頼ったとあります。
彼の亡骸は、他の人と異なる念入りな埋葬をされています。民から功績をたたえられたということなのか、この王の最後のようにはならないようにということであるのか、私にはわかりません。


詩編123編

3わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
4平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。


憐れんでくださいというシーンから、ルカによる福音書18章のファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りを思い出します。
ファリサイ派の人は自分が週に2度断食し、献金もささげていて、あの徴税人のような者でないことを感謝しますと祈っています。
しかし、徴税人は、神殿の離れたところで、目を天に上げて、胸を打ちながら言いました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」
神様に受け入れられたのは、どちらでしょうか?

もう一つ憐れんでくださいと言うシーンは物乞いです。
自分に持っているモノは何もなく、自分で生活する力もありません。
どうかわたしを憐れんで、何でもいいので恵んでください・・・という場面です。
教会の礼拝で、両手をあげて賛美していることがありますが、これもある意味「私には何もありません。お手上げです」・・・というポーズのようにも見えます。
自分の中には、神様にささげるような価値あるものはありません。
このような私を憐れんでください。
神様への道は、へりくだった者に見えてくるようです。

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