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大人になれないままあっちに行ったあいつ。

あいつとは、小学校の時に出会った。正確にはあいつとの小学校時代の記憶は、ほとんどない。中学生になって父の仕事の都合で僕は愛知豊橋市へ転校した、中三で船橋に戻って同じクラスになったところからの記憶があいつとの最初の記憶なのかも知れない。

小学校の卒業アルバムには小柄で色黒なあいつの笑顔が残っている。ソフトボール部だから黒いのか、地黒なのか…たぶん、その両方なのだと思う。まぁ、何にしてもいつも黒い顔をしていた。

中学に入ってバレーボール部で再開したあいつは僕よりもちょっと背が高くなっていた。中学に入ってから20センチ近く背が伸びたんだと言っていた。

その後、中学卒業までに5センチ以上伸びたので気づいたら10センチ近くあいつの背の方が高くなっていた。

中学校では部活が同じで家の方向が同じだったので部活帰りに中学生らしいバカな話をして一緒に帰る事が多かった。

好きな女の話とか、試合の事、仲間内の事。他愛ない話を夕焼け雲や星空をバックに延々と話したっけ。なんであんなに話題があったのか分からないけど…

当時、同じクラスで仲良くなったのがあいつ(=W)の他に、NとFの4人だった。

不良グループから転校で一転、いじめられっ子に

中学校1年~2年生は愛知県豊橋市の昭和が継続しているような荒れた学校でヤンキーの仲間に入りきれず、不思議な立ち位置で過ごした。

3年生になって船橋市に戻ってくると思春期真っただ中の同級生たちから異質な存在として無視されるようになった。

今思い返してみたら、小学校の卒業式以降会っていない奴が田舎の街から帰ってきて、なんか不良ぶっているというか…変な空気をまとっていたのだから敬遠したくなるだろう。

僕のサイドからは、よく知っている顔の仲間たちでも、途切れなく同じコミュニティで一緒に育ってきた同級生たちから見たら「なに馴れ馴れしくしてんの!?」って思うんだろう。微妙な年ごろだったし。

いや…いまこうやって文章に起こしてみると…自分が勝手に無視されていると思い込んでいただけなのかも知れないとも感じる。結局、あれは何だったんだろう…

そんな時でも、部活が一緒だからってことでWとは一緒に帰る事が多かった。みんなの人気者だったWと一緒にいる機会が増えたからなのか、徐々にクラスのみんなとも打ち解けるようになっていった。

夏になる頃には、担任のTは「お前がクラスのムードメーカーなんだからな!変に暗くなるなよ」とか勘違いしたコメントをもらう程に明るく見えるようになっていたらしい。

この頃の僕は、いつも自分が生きている意味が分からなくって、「死にたい。早くこんな人生終わればいいのに」って考えていたのだから…間違っても明るい性格なんかではないのだと思う。

まぁ、紆余曲折あってそんな僕でも3年生のこの1年間には、青春映画で見るような後輩からの告白とか同級生から校舎の裏に呼ばれて…みたいな事や部活の試合で勝った負けたなんて事を普通に楽しむ中学校生活を送ってきた。

僕の中には、Wへの感謝があった。

ガサツだけど、いつも人の輪の中心にいる。運動神経お良く、顔もよかった。背もどんどん伸びていき、この頃には176センチくらいまで伸びていたと思う。そうそう…バレンタインデーに一緒に帰るとチョコレートを渡したいって女子に取り囲まれていたっけな。

まぁ、何にしても良い奴で女の子にもモテる奴だった。

中学校3年生だった僕たちの生活は、当然のように部活の引退や受験勉強という大きな流れに巻き込まれていった。

この頃にはいつもの4人。という感じの定番メンバーになっていたWとNとFと僕。束の間でいいから受験勉強から逃げたくって大みそかにそれぞれ示し合わせて家を出た。

金もないし、どこに行っていいやら何も計画も立てていない。寒くて凍えそうな僕たちは、当時船橋市内・夏見という場所にあった健康センターに逃げ込んだ。ここには宴会場と仮眠室が併設されていた事をメンバーの誰かが知っていた。

一緒に風呂に入って、何するともなく仮眠室でダラダラしていた。

僕たちがいつもの4人でいられる期間も残りわずかだって事をみんな知っていたし、進路がバラバラになる事もわかっていた。

そこそこ優秀だったWは、大学の付属高校を推薦で受験する予定だったと思う。全然勉強できなかったNはサッカー推薦で県内の強豪校に。意外と勉強していたFは野球推薦で埼玉県内の強豪校にほぼ決まっていた。僕だけは一般受験で県立高校に行くべくこの年末にも勉強を続けている感じだった。

受験はそれほど大きなトラブルもなく予定調和に収まり、みんなそれぞれの進路に進んだ。

高校生になっても続いた年末の行事

それぞれ、違う進路に進んでも何となく年末に健康ランドに行く流れは続いた。1年間ほとんど連絡を取っていない仲間たち。今のように無料のLINE電話も使えないし、メッセンジャーアプリとかSNSで連絡を取り合いなんてことはない時代。

ガラケーですら、僕が高校生の時にはまだ普及していない。せいぜい持っているのはドコモのポケベル。しかも番号しか送れないやつだった。

久しぶりに会ってもお互いの近況を報告して、彼女ができたとかできないとか。部活の試合で結果がどうだとか…まぁ、高校生らしい会話で年末が更けていった。

高校3年生の年末も同じように過ごしたと記憶している。

たしか、サッカーの強豪校に行ったNが「おれチーマーになっちゃった」っておかしなことを言いだした時期。たしか、学校は中退したんだったと思う。

高校球児だったFは引退後にはすぐ地元の大学を受験すべく勉強を開始し、僕も何となく周りのみんなと同じように受験勉強をしようという雰囲気に流されそれなりに受験の為に備えていた。

Wは付属高校だったので学内受験というのか、志望する学部の選定のためのテストを受けるとかそんな話だった気がする。

受験の結果、Wは予定通りに大学生に。Fと僕は浪人が決まり、Nは卒業と同時に姿を消した。

受験勉強だけの生活になってそれなりに受験勉強のテクニックを覚えるのが楽しくなってきた1年。また、年末がやってきた。

「今年は、どうする?」大学生なので毎日遊び放題のWから電話が来た。まだプッシュホン回線だった家の電話を自分の部屋に引っ張り込んで「Nは行方不明だろ。Fも俺も受験前だから終わってからにしようぜ」と10秒で終わるはずの話を30分以上ダラダラとしていた気がする。

滑り止めだった県内の某私立大学に合格し、すぐにWに電話した。

Wの姉ちゃんが電話口に出た

「M(Wの下の名前)は、いま入院していて…」

「また~、そんなくだらないウソつかないでよ~」と、僕。

「友達に引っ越しを手伝っていたら事故に遭って…いま、ICU(集中治療室)に入っているの」

「まじで!?だって、受験の前に電話して話した時には…受験おわ…あそぼって…おれ、一つ受かったから…」言葉にならない。涙が勝手にあふれ出てきた。

翌日が試験だったFにすぐ電話してとりあえず二人で一緒にWが入院しているという神奈川県の鶴巻温泉にあるというT大学病院へ行く事にした。

初めてのICU

飾りっ気のないICU。確か、病室に入る前に消毒みたいなことをして、防護服みたいなのを着たような気がする。その後のことの衝撃が大きすぎていまでもその時のことはほとんど覚えていない。

至る所からチューブがつながっている親友。うんともすんとも言わない…Wは入院してからのこの日までに緊急手術を2回ほどしたのだとか。

僕は、泣きそうになるのをこらえて必死で言葉を押し出した「俺たち、ごう…かく…したんだ。一緒にあそびにいく・・って」最後まで言葉が出ない。

そのままICUの部屋で泣き崩れた。

Fは、Wの顔を見れないままに部屋の端っこでずっと泣いていた。

いまこの文章を書いていてもその時の様子を主出して涙が出てくる。

僕たちは10分なのか、30分なのか…時間の感覚もないままにICUの部屋を出た。廊下でしばらく泣いていた。

それまで一緒に遊んでいた親友がこんなことになるなんて。誰も想像しない。まだ、僕たちは19歳だった。これから先のことを考えて、いかに楽しく過ごすのか、どんな女の子と付き合うのか、将来どんな会社に就職してどんな過程を築くのか。どんな子どもを育てるんだろう…

そんな夢を語るにも早い年齢。

やっと社会に出る準備を整え始める大学生にとってとても大きな出来事だった。

Wの姉さんの話によると、友達の引っ越しを手伝うために下宿先に4人で行ったのだという。帰りに荷物が空になったからホロ付きの荷室に2人が乗り、2人が運転席と助手席に乗ったのだとか。

まだ未熟な運転者だった19歳の男の子たちはハンドル操作を誤って道路脇のガードレールか何かに突っ込んだのだ。

運転席と助手席の二人は無傷。

ホロの中のWは意識不明の重体。もう一人はNくんは即死だった。

救急車で運ばれたWはそのまま緊急手術を2回したという。頭を開けて脳の周りにたまった血液を取り除いたり、お医者さんは最善を尽くしてくれた。

たぶん、事故があったのは1月とか2月だったのだろう。

僕たちはその直後に病院へ行った。

その後の受験は僕もよく覚えていない…

 

電話でWの事故の話を聞き電話を切った後に「おれ、大学行くのやめる…もう、生きている意味なんてない…」って両親に泣きながら話したのを覚えている。

「何があったの!?さっき、合格したってWくんに電話してくるって言っていたじゃない!?」

「Wが事故って…死にそうなんだ。俺が大学とか行っている場合じゃない…」

今思えば、僕が大学に行こうと行くまいとWの病状にはなんの影響もないのだが、混乱していたし、何しろ親友がいなくなることの恐怖の方が大きかったのだ。

 

毎月の見舞いとWの回復

WはじきにICUを出て一般の病室に移った。僕は大学生になり、サッカー部に入った。部活おバイトの休みを利用して月に1回は鶴巻温泉のT大学病院まで見舞いに行った。

Wは、徐々に顔色もよくなり(って言っても黒かった)、しかも何と背が伸びていた。この時にはすでに180センチ近くまで身長が伸びていた。

「生きたい」と願う彼の若い身体は、日々重力の影響を受けないで寝ているままの状態でスクスクと成長し続けている。

僕たちは見舞いのたびに「あぁ、Wは元気になる。きっと、『お前たち毎月来てただろう!?暇だなぁ』って憎まれ口をたたくに違いない」と回復の兆候をみて心が明るくなっていった。

そんな感じで半年が経った。

僕は部活の合宿を終えて、大学近くの居酒屋で部の仲間たちと打ち上げをしていた。

「プルルル」僕の携帯電話が鳴った。

「Mが亡くなりました」Wの姉、ももちゃんからの電話だった。

酔いは一気に覚め、「俺…帰るわ…」と飲み会を途中退席した。

帰りの武蔵野線で携帯に記録している同級生の電話にWの死を伝えた。通夜の日程と葬式の日程を伝えて、「みんなにWの顔を見てもらいたい」と連絡しまくった。

心当たり全てに連絡を終えると、携帯の充電も無くなりそうだった。

家に帰る気にもなれなくて、西船橋駅からWと中学校の時に歩いた道をとぼとぼ歩いた。色んな記憶がよみがえってくる。ここで石を投げたっけな、ここで彼女の話したっけな、ここで喧嘩したっけな…

 

通夜にはたくさんの同級生がやってきた。

葬式にも同級生の多くが参列した。

あっけなく、Wは死んだことになった。

僕はこの一連の親友の死という出来事を経て、「人はいつか死ぬ。しかも思ってもないタイミングで突然に死んでしまう。どんなに社会で成功してても、イケメンでも、スポーツ万能でも関係なく死がやってくる」という当たり前の事実を知った。

そこから、30歳までに独立して自分のやりたいことをやるための会社を作って自分に正直に生きて、自分のために自分の時間を使って死ぬまで生きようと考えるようになった。

そうして、24年…
僕はいま起業して2つの会社を経営し、1つの公益社団法人、1つの一般社団法人の経営に参画している。

新卒から経営コンサルタントの仕事を経て、営業職を経験し、独立して…とこれまでに得てきた経験を次の世代に残していく為にYouTubeをはじめ、noteにも記録を残すようにしている。

いまでもあいつの命日近くには法華経寺の境内にある墓に報告に行く。9月6日があいつの誕生日だった。命日は8月29日…たった、1週間短かっただけでずっと大人になれないままのあいつとは、僕が向こうに行っても一緒に酒を飲むことができないんだなぁといつも思う。

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