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本離れ、テレビ離れーー文化が資本にならない社会

本が読まれなくなっているどころか、テレビ離れまで起きているらしい。かく言う私の下宿にもテレビはない。なぜないのか。
単純に、うるさいからである。

バラエティ番組が多すぎるし、その破壊力が凄まじすぎる。どんな閑静な場所に住んでいようと、大自然のなかにいようと、点けた瞬間に全てを消し飛ばす破壊力。

とくに私が恐れているのは〈笑い〉だ。
始終響く大爆笑、ユーモアではなく、ジョークの大渦。ユーモアは好きだがジョークはあまり好きじゃない。ジョークは他者に対するの配慮なさ、弱点を狙って小さな傷をつけること、つまり暴力による笑いだ。

暴力による笑いは、強烈な面白さを持つ。だから飛びついてしまう。が、ジョークをずっと聞いていると気が滅入ってくる。はじめは笑えても徐々に疲れてくる。笑ってしまったことへの罪悪感さえ起きる。まるでじわじわ効く弱い毒だ。

今のテレビは暴力による笑いが基盤になっているんじゃないかと感じる。だから、離れたくなる。

この間実家に帰って久々にNHKを見たら、ほとんど全ての番組にお笑い芸人が出ていて驚いた。
一番びっくりしたのは紅白歌合戦で、私はこの番組は非常に権威があり、紅白で歌えるのは、その年一番にブレイクしてかつ実力が認められた一握りのアーティストだけだと思っていたので、聞いたことのない曲のオンパレードな上に、司会者や元司会者が歌い出し、踊り出したのには、度肝を抜かれた。しかもあまり上手ではない。大泉洋さんはうまいけれど、素人でもうまい人はいるわけで、紅白歌手はうまけりゃいいってわけじゃないんでは。アーティストとしての実績があるからこそ出場できるものだったはずでは……と困惑した。いつからこうなったんだろ。

NHKのプライオリティは、NHKに出るなんてすごい!という権威性だと思う。質が大事なのはもちろんだが、それと表裏一体、むしろそれ以上に、権威性に価値があった。つまりブランド力である。今回の紅白は、NHKが自らのブランドをかなぐり捨てた象徴的な出来事に見えた。

高級ブランドが売れないからと、半額セールをしたり、廉価版に手を出したりしたら、ブランド自体の価値が総体的に低下する。苦しくても権威を保たなければならない。そうでなければ存在価値が失われる。ターゲットを広げるより狭めた方がまだ生き残れる。価格が上がることでより価値が高まる。人はより高級なものを求める生き物だからだ。

これと似たようなことが出版業界でも起きていると思う。本読まない人に本を読ませようとすると、本来の本を読んでいた人が読まなくなる。
読書通に耐えうる作品と、本を読まない人が読むに耐える作品に乖離があるのは仕方がないことだ。
俗物的でわかりやすく親しみやすいものは、最初は良いがすぐに飽きる。

そもそも本を読みたいと思う人が減ったのは、出版される本の内容がどうこうというより、日本社会が反知性主義的になってきたからではないかと思う。

片岡栄美『趣味の社会学――文化・階層・ジェンダー』(青弓社、2019)が示すように、日本では、パチンコだのカラオケだの大衆文化に親しむことが、コミュニケーションの紐帯となっている。日本においては、上流階層と言われる人たちに、とくに男性には、教養が必要とされない。むしろ大衆文化によって結びつき合うことが肝要なのだ。

文化資本の問題が最近取り沙汰されているけれど、現状の日本社会で男性が成り上がるのに、文化資本は必要ないらしい。ブルデューの理論は、フランスみたいな教養によってエリート層の卓越化を図る社会だから言えることで、日本社会でクラシックが好きだなんて言ったら、お高くとまったルサンチマンと嘲笑されることはあっても、自分の社会的地位の向上(昇進とか)にはまず繋がらない。(女性の場合は文化資本が重要らしい)

男性においては、学歴と文化資本に相関関係が見られないというのは、かなりびっくりな話だ。学歴と経済力に相関関係はあっても、学歴と文化資本に相関関係がないとすれば、それは何を意味しているのか。

海外では上流階層に教養が求められることに変わりはない。グローバル社会と言われる中で、文化資本が少ない日本人の影響力が低下するのも、無理のない話だ。

戦前は文学全集の円本がバカ売れするし、戦後しばらくは労働者でも岩波文庫を並んでまで買ってかじりつくように読んでいたし、日本にも教養主義の時代はあった。が、それが崩壊し、社会的な地位の向上に教養ではなく、大衆文化による仲間意識が役立つようになった。そうした内輪だけに通用するノリが、結果的に文化を殺し、権威という名の影響力を殺し、そのうち経済も殺すだろう。

本が読まれなくなったのは、こういう現代日本特有の知性を嘲笑して内輪ノリを重視する権力構造に起因しているんじゃないかと思う。
読んだって資本にならない、文化が資本にならない社会では、読むことの意味が感じられなくて当たり前だ。むしろ読んでると嘲笑されるんだから、読まなくなるのは必然だろう。

本が読めるのは、学校など、知性の価値が保証された安全な空間だけになっているのでは。
本を安心して安全に読めるのは大学まで。そこから出た後は、どうなるのか。

本にせよテレビにせよ、文化を発信する立場の人間は常にその価値を訴える必要がある。既存の人気性や話題性に飛びつくのではなく、自分たちが価値を一から作るつもりでなければ、文化が資本と見做されない社会では、衰退を免れない。
文化の創出者に頑張ってもらわないと、グローバル社会で生きていけない。
なんだかんだ鎖国してた頃の感覚が日本人は抜けていないのかもしれない。