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ひとは、凝固する乳をどういうわけで食べ始めたのか。キンステッド『チーズと文明』を読む(1)「チーズの起源 古代南西アジア」

今回から、この本を読む。チーズはまぁまぁ好き。そろそろ蒸し暑くなってきたので、モッツァレラは好き。洋酒をあまり嗜まないので、米焼酎の水割りとかロックとかと。日本酒と併せてしまったりすることもある。

摘 読。

21世紀に生きる私たちの前には多彩なチーズがずらりと並んでいる。伝統的なチーズにはそれぞれに物語がある。どういったわけで、それらが生まれてきたのか。その個々の歴史を、繙いていこうとするのが本書である。さらに、著者の住むアメリカとの違いであったり、ヨーロッパとアメリカのあいだでの紛糾であったり、そういった点についても後の章で言及される。

さて、旧約聖書の創世記において、アダムとエバのあいだの子、カインとアベルのうち、カインは土を耕し、アベルは羊を飼うものとなった。つまり農耕と牧畜は旧約聖書の始まりにおいて、すでに記されている。農業は紀元前11000年ごろ、南西アジアで起こり、同様の地理的環境の近隣地域であるカインとアベルの地でもまた始まった。狩猟採集をする集団が、一定の季節だけ野性の穀類や豆類が育つ、ヨルダン渓谷から北へ向かってシリア内陸をとおり、今日のトルコ南東部へと続く地帯にすむようになった。ナトゥフ人と呼ばれる人たちである。ここから定住生活が始まり、初期の技術革新が起こった。同時に、家族が基本的な居住単位となった。ただ、その後に地球は現在まででは最後に当たる寒冷期に入り、ナトゥフ人も姿を消してしまう。

そして、紀元前9500年前後には極度に地球温暖化が進んだ。その後、今日とほぼ同様の気候的条件にまで至り、気候は著しく安定した。この温暖な環境は天気のパターンが予測可能で、季節的変化は人類にとってひじょうに都合がよかった。これによって、農耕と繁殖、飼育への可能性が開かれた。そもそも、農耕は計画的に採集し、前収穫期からの種子を保存し、次の成長を期待して種子を播くこと、そして収穫まで作物の世話をすることをいう。これに対して、繁殖と飼育とは、望ましい特徴を備えた特別な遺伝学上の種子を意図的に選び出して栽培すること、または家畜の場合ならそのような遺伝学的に特別な血統の動物を飼育することをいう。これは画期的なことで、地球の豊かな生産力が植物性食品と動物性食品に拡がることを意味した。

紀元前9000年から8500年のあいだに肥沃な三日月地帯で植物が栽培できるようになった。それとともに、山に近い地域にヤギや羊が住み着くようになった。そうなると、これらの動物を獣肉や皮、糸といったかたちで入手できるようになった。ヤギ、そして羊と続き、そのあとに牛の牧畜も始まる。これにともなって、農耕と牧畜の混合農業がレバント(今のレバノンあたり)を起点として広がっていった。紀元前7000年までには食糧の増産と定住によって、幼児と老人の死亡率が下がり、大幅な人口増加もみられた。ここに新石器時代が開花する。

そのころになって、チーズ製造に欠かすことのできない2つの前提が揃う。ミルクが豊富に生産できるということと、そのミルクを集めて保存し、凝固させ、できた凝乳(カード)と乳漿(ホェイ)とを分けるための容器があること、この2つである。この2つの条件が、この時期になって突如として満たされた。ミルクが出るようになったのは、おそらく何世代もかけて交配をおこない、遺伝学的変化を起こさせた結果であろう。紀元前6500年ごろには、家畜化した動物の骨の分布をみると、肉からミルクの生産に実質的に移行したことが窺われる。とりわけ、耕作に失敗した人たちは飢餓の危機にさらされた。その際、牧畜によって農耕に適さないため使用されていなかった周辺の土地を自由に使って、羊やヤギに草を食べさせていた。その後、牧畜の重点は牛へと変わっていった。

新石器時代の人類にとって、動物の乳は人間の乳幼児に与えることを目的としていたようである。ミルクは成分として乳糖(ラクトース)を高い濃度で含んでいるが、それを消化する酵素であるラクターゼが胃や腸のなかで生成される必要がある。新生児はラクターゼを自然につくっているので母乳を消化できるが、離乳後はラクターゼが減少する。したがって、人間の大人がミルクを飲むと、ラクトースは消化されないまま残り、町内の微生物環境を破壊し、激しい下痢や腸内ガスの発生、膨満などを惹き起こす。今日では、特に北欧系の人々はラクトース耐性を持ったまま大人になる。祖先たちがラクターゼをつくる能力を遺伝的に獲得してきたからだ。

ところが、南西アジアで酪農がはじめられた直後からチーズとバターの製法が発明され、人類はミルクから栄養を摂ることが可能になった。紀元前7000年から6500年ごろに高温加工する技術が発見され、陶器製造への道が拓かれた。陶器の発展は食品の保存、加工、輸送、調理技術一般の観点からみて、大きな前進であった。それによって、余ったミルクは集めて陶器の容器に入れて保存されるようになった。南西アジアは温暖なので、保存容器のミルクはバクテリアによって乳酸を発生させ、急速に発酵し、凝固したのであろう。それによって固まったカードとホェイが分離する。固まったカードを成人が摂取しても、一般的な分量ならミルクを飲んだ時のような症状にはならない。そうなると、ホェイのなかからカードをより効率的に取り出すための道具が欲しくなる。この時代の地層から、漉し器のような役割を果たした陶器が出土している。バスケットもあったと推測されるが、素材的に残りにくいこともあって確かな証拠が残っていない。

このように飲料のミルクが豊富に生産できることと、陶器の容器とが両方揃って、酸を使用したチーズ製造が日常的に行われるようになる。この当時のチーズは、今日でも近東で生産されているチョケレクチーズ*のようなものであったと推測される。

* チョケレクチーズとは何か?検索したがすぐには出てこなかったので、また調べてみよう。

いずれにせよ、酸と加熱によってチーズ製造が始まったようである。ただ、こういったチーズは腐敗も早いので密閉するか、あるいは塩などを加えるかしていたのであろう。

さらに、反芻動物の胃の内膜を乾燥させたもので、ミルクを凝固させるのに使うレンネットによるチーズ製造もおこなわれるようになったと推測している。

こういったチーズ製造は人口の増加と天然の浸食作用による肥沃な三日月地帯からの流出とともに、移り伝わっていった。メソポタミアやエジプト、インダス=ハラッパ、さらにトルコからバルカン半島、ドナウ、ラインを経て北海やイングランドへ向かうルート、もう一つはレバントの海から西方に向かい、地中海北岸からギリシア、イタリア、フランスを経てスペインに向かうルートである。紀元前4500年ごろまでに新石器時代の近東文化は、地中海沿岸、ヨーロッパ全域と中東を席巻し、インドの入り口にまで広がっていったのである。

私 見。

私も乳製品は好きだが、以前はお腹が緩くなることもあった。今でも摂取しすぎには気をつけている。

さて、内容そのものは「なるほど」というところくらいなのだが、この本の方法が興味深い。先日、私が所属する経営学史学会というところで報告をしたのだが、その際に、歴史記述の方法としてギンズブルグ(Ginzburg, C.)のミクロストリアと世界史という考え方を下敷きにしてみた。そこでは顕微鏡的領域と望遠鏡的領域という概念が示されている。これは、ドイツからアメリカに亡命した社会学者(エスノグラフィ的なアプローチといっていいと思う)のジークフリート・クラカウアー(Kracauer, S.)からも影響を受けている。

この本なども、顕微鏡的な歴史記述を踏まえながら、チーズという西洋圏での食生活の重要な一つの要素の望遠鏡的な歴史を描き出している。そして、それを通じて生活史の一端を描き出そうとしている趣がある。

この辺りを意識しながら、この先も読み進めてみたい。

あと、摘読にも記したが、やはり人間にとって農耕の開始というのは、きわめて画期的なできごとだったといえる。しばしば資本主義批判と農耕文明批判が結びつけられるが、故ないことではないかもしれない。牧畜・酪農の場合は、飼育する動物の繁殖や生育の可能性によって成長の範囲が限定されやすいが、植物=農耕の場合は動物に比べれば成長可能性の範囲が大きいといえる。そこから、基盤としての土地、技術・技能・知識、前期収穫からの蓄積など、逓増的な生産そして収穫を見込むことができる。

こう書いたからといって、私は農耕批判、そして資本主義批判を安易にするつもりはない。ただ、こういった生活サイクルの変化という事態を捉えておくことは、きわめて重要な意義があろう。

今回の本もおもしろそうである。楽しみ。




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