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「わ」になっておどろう

日本が「日本」になるずっと以前、この列島界隈の人々は自分たちのことを「わ」と名乗っていました。
それは多分「われ」「われら」ということを意味していたのでしょう。
あるいは自分たちが暮らしていた環濠集落のことを指して、「わ」と言ったのかも知れません。
いずれにしても彼らと対面したシナの官僚たちは、この音に「倭」という字を当て、彼らのことを「倭人」、彼らの国のことを「倭国」と書き表しました。
はるばる海を渡って朝貢に来た東夷の蛮族の、見るからに恭しげな様子に、「倭」と名付けたのだろうと考えられます。
「倭」という字は、人偏に委(ゆだねる)で「ゆだねしたがう、従順」という意味を持ちます。
 
『漢書』地理志は、「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」と初めて「倭人」についての記載があることで知られますが、その前の文には「東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。」とあります。
「九夷」は倭国のこととされ、孔子は『論語』で「子、九夷に居らんと欲す。・・・子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。」と、倭国には君子と君子に従順な民がいるので私もそこに暮らしたいということを語っています。
王充の『論衡』では、周の武王や成王の時代(B.C.10~11世紀)にすでに「倭人来たりて周王に暢草(薬草)を献ず」とあり、かなり古い時代から「倭人」という呼び方をされていたことが窺えます。
また『後漢書』東夷伝には、西暦57年倭奴国の大夫と称する者が光武帝に朝賀して印綬を賜り、107年には倭国王帥升等が生口160人を献じ謁見を請うた、と記されています。
 
『魏書』烏丸鮮卑東夷伝には、238年邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、使者が語ったというさまざまな倭国の風俗、慣習が書き留められています。
・その風俗は淫らでなく、男子の衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけで縫いつけず、婦人は単衣の中央に明けた孔に頭を突っ込んで着ていること。
・男子はみな顔や体に入墨をしていて、古代から中国に訪問するとみな自ら大夫と名乗ること。
・婦人は慎み深く、国の大人は妬まず、盗みもなく、諍いや訴訟も少ないこと。
・酒を嗜み、集まりや座る順には父子男女の区別はないこと。
・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいること。
このようにシナ人たちから見た倭人の暮らしぶりは、平和で慎み深く、のんびりとしたものだったようです。
 
『隋書』東夷伝俀國伝には、600年、倭王アメタリシヒコよりの使者に対して、隋の高祖文帝が倭国の政治のあり方を改めるよう訓令したとあります。
この出来事は倭国側にとってよほど国辱的な出来事として受け取られたためか、後々正式な国史としてつくられた『日本書紀』にはまったく記されていません。
しかし603年には冠位十二階、604年には十七条憲法が定められるなど、迅速に隋風の政治改革が行われた上で607年、聖徳太子は隋に小野妹子を使わしたと『日本書紀』に記しています。
「日出處の天子、書を日没處の天子に致す」で始まる国書を読んだ二代皇帝煬帝は、東夷の首長が天子を名乗ったことに対して悦ばず「無礼な蛮夷の書は二度と自分に見せるな」と言ったと『隋書』にはあります。
聖徳太子をはじめとする倭国の首脳陣は、二度と政治的介入をされないよう国の制度を整えた上で、シナと対等の関係を結ぶための国書を送ったのでしょう。
 
小野妹子は隋からの帰り道、煬帝の返書を紛失するという大失態を犯しますが、もしかしたらこの書には倭国を貶めるような内容が書かれていたため、故意に失くしたのではないかとも思われます。
その証拠に彼はすぐに恩赦された上、昇進して翌年の遣隋使として再び派遣されています。
この時の国書には「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」とあり、皇帝のみが使うことを許される「皇」の文字を、堂々と倭国王に対しても使いました。
 
聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」の第一条は、「和を以て貴しと為す」で始まり、「人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらは道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない」と説いています。
太子は隋の文帝から内政干渉されそうになった時には、文明国として認められるための改革をわずか数年で達成し、煬帝から冊封されそうになった時には、書類そのものを無かったことにして難を逃れました。
正面切って争うことなく「和を以て何ごとも成しとげる」という言葉を実践したのです。
 
聖徳太子の死後ほどなくして、倭国は大和国となり日本国となっていきます。
中世アラブ世界では、東の彼方にはワクワク(倭国?)の国があると信じられていました。
その国は黄金で満ち、そこに生えるワクワクの木には女性の形をした実が生って、髪の毛でぶら下がっていると思われていたようです。
やがて日本国という呼び名が国際的に認められ、シナではzi bun guuなどと発音されるようになります。
それを聞いたマルコ・ポーロはジパングと呼び、東の海中にある黄金の国として想像力を膨らませ、いつかその国を訪れる日を夢見てワクワクしていました。
 
「わが国」には縄文時代から一万年以上も続く「わ」の精神が脈打っています。
「わ」は「われ」であり「われら」であり「わが家」です。
そしてそれは、まるくつながった「輪」の集落でもあります。
「わ人」たちは「輪」でつながり合いながら、それぞれが歌い、舞い、踊ることで、美しい「わ音」を奏でて暮らしてきたのです。
こうした「われわれ」の平和な暮らしぶりこそが、「黄金の国ジパング」の本当の姿なのではないでしょうか。

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