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レイバー、ワーク、アクション

前回「労働」がlaborの約語であるのに対して「勤労」はworkの訳語だということを書きましたが、今回はもう少しレイバーとワークについて掘り下げていきたいと思います。
 
Laborはもともとラテン語のlabor(名詞)laborare(動詞)が語源で、「骨の折れる仕事」という意味を持った言葉です。
Laborには「労働」のほかに「分娩」「陣痛」という意味もあり、「痛くて辛いこと」というニュアンスを示しています。
ギリシャ神話に出てくるシシュポスは、神々を欺いた罰として、ゼウスに冥界の底タルタロスに落とされ、巨大な岩を山頂まで押し上げる作業を課せられますが、頂上近くまで行ったところで、岩は必ず転げ落ちてしまいます。
古代ギリシャではこのように、労働は罪を負う者の苦役として位置づけられ、奴隷がするべき事として考えられていました。
また旧約聖書の創世記では、禁断の知恵の実を食べてしまった人間に対して神は怒り、3つの罰を与えます。
死すべきものとすること、女が出産に苦しむこと、そして労働の苦役です。
労働と出産が同じ「レイバー」という言葉で表される理由は、このとき人間が背負ってしまった原罪にあり、どちらも「辛く避けたいもの」だと、ユダヤ・キリスト教世界では捉えられてきました。
 
Work は古英語・ゲルマン語のworcに由来し、インド・ヨーロッパ祖語のwergom(働き・仕事)という言葉が語源ですが、この語の語幹wergは「作ること」を意味します。
つまりある目的を持って行う仕事や努力、研究などを「ワーク」といい、自分自身が「自主的に活動する」ことを表しています。
ある仕事をレイバーと呼ぶかワークと呼ぶかは、その仕事そのものの内容や性質が決めるのではなく、その仕事を引き受ける個人が好きでやるか嫌々やるか、ということによって決まるのです。
レイバラーが生活の糧を稼ぐために仕事をやらざるを得ないのに対して、ワーカーは自らの意思によってその仕事を選んで働きます。
 
政治哲学者のハンナ・アーレントは『人間の条件』で、人間の活動的生活vita activaは「労働labor」「仕事work」「行為action」という3つの活動力から成り立つと論じています。
労働は人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力、仕事は人間の存在の非自然的な側面に対する活動力、行為は人間と人間の間で事物を通さずに直接行われる活動力である、とアーレントは定義します。
少し意訳すると、レイバーは生命維持活動ため、ワークは創作活動のため、アクションは政治的活動のための人間の条件だということです。
古代ギリシャのポリスでは、アリストテレスの言う政治的生活bios politikosが行われ、市民一人ひとりが公的領域というアクション・テーブルにおいて自分自身の差異性(個別性)を発揮していた、とアーレントは述べています。
ところが近代社会では、日常の「必要性」を優先する社会的領域が公的領域に取って代わり、「生命」が究極的な基準として、他のすべてを呑み込んでしまったと言います。
その結果ワークやアクションは生命の必要性に従属させられ、いまやレイバーが人間の唯一最高の義務となりました。
かくして人間は「労働する動物」として、自ら進んで動物へと退化しようとしている、とアーレントは結論します。
 
現代社会ではレイバーがその比率をどんどん増し、ワークやアクションの領域を侵食しているというアーレントの指摘は、『人間の条件』が書かれてから65年後の社会に生きるわたしたちの、まさに日常となっています。
「人間を作ったのは(神でなく)労働であって、人間を他の動物と区別するのも(理性でなく)労働である」とマルクスがいうように、近代資本主義経済はレイバーをあらゆる価値の源泉として賛美します。
資本主義のダイナミクスの帰結としてグローバル経済が成立し、あらゆるものの価値が「金額」という単一の尺度に還元されつつある今の状況は、レイバー的なものの一人勝ちに他なりません。
現代に生きる人間の大多数は、古代ギリシャにおいては奴隷がするべきことと考えられていた、レイバー活動に追われながら生きることを、当たり前に思っているのです。
 
しかし21世紀初頭を過ぎた人類の社会は、AIとロボット、そしてそれらをつなぐネットワーク・インフラによって、根本的に変わろうとしています。
レイバーという働き方はほぼ全て、ロボットに置き換えることが可能です。
古代ギリシャで奴隷たちが行っていた「市民の生活からレイバーを排除する」という活動は、早晩ロボットによって実現されることになるでしょう。
とすると現在「生活の必要のために働いている」人々は、みな働き口を失うことになります。
 
この近未来の出来事を「良いこと」と捉えるか、「悪いこと」と捉えるかは、そこに直面するわたしたち一人ひとりが、「自らの意思によってその仕事を選んで働く」ワーカーであるか、「生活費を稼ぐために仕方なく働く」レイバラーであるかによります。
ワーカーは「自分がもっとやりたい仕事」を探して、そのために必要な知識やスキルを身につけようとするでしょう。
レイバラーは「せっかくの稼ぎ口を奪われ」てしまい、「食うに困る」ことになると思うでしょう。
 
しかし社会全体を見れば、食糧やエネルギー、消耗品など必要品の生産はすでにロボットで事足りているので、必ずしも働く必要はなくなっています。
古代ギリシャのポリス市民のように、自分自身の時間を創造的な活動(ワーク)に使おうが、政治的な活動(アクション)に使おうが勝手なことで、そのために必要となるレイバラーは、社会的インフラとして存在しています。

ソクラテスになることも、ソロンになることも、ピタゴラスになることも自由な社会に必要なのは、一人ひとりの自主的な意識の持ちようだけです。

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