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ブトーとブヨー

前回は武闘ブトーから舞踏ブトーへ、からだの使い道をシフトチェンジすることで、現代のような平和な世の中でもからだ使いの達人になり得るということを書きましたが、歴史的に見れば武闘の動きが舞踏になった例はいくつもあります。
そもそも武闘と舞踏のからだ操作は、双子の兄弟のようなものだったのです。

インド・ケーララ州に残される最古の舞踊劇クーリヤッタムや、そこから派生したインド歌舞伎カタカリなどには、世界最古の武術=マザー・オブ・マーシャルアーツともいわれるカラリパヤットの身体操作が取り入れられています。
カラリパヤットの上級者は、体術とともにマルマという治療技術も修める活殺自在の達人ですが、禅宗の祖師となる菩提達磨もその一人だったようです。
南インドから南シナの梁に渡り嵩山少林寺を開いた達磨大師は、長時間の禅行に耐えうる体力的ベースを整えるため、修行者たちに易筋行と呼ばれるカラリパヤットの修練を課しました。
それが後に十八羅漢手という武術の型にまとめられ、少林拳として広くその名を知らしめられ、太極拳などの中国武術を生み出す源流となったのです。
少林拳の達人の動きは時に華麗な舞そのものであることは、カンフー映画を観たことのある方なら誰しも納得できると思います。
最近ではベルギー出身のダンサーで振付師のシディ・ラルビ・シェルカウイが、少林寺の武僧たちを呼んで、世界60都市で『Sutra』という見事な武闘舞踏パフォーマンスを見せてくれました。

もともと古代シナの舞踏には「狩猟舞」と「戦闘舞」という2種類があり、どちらも武闘の動きの基本型を演じたものでした。
中国語では「武」「舞」という文字は同じく「ウ」と発音され、互いに転借し合う言葉として、密接な依存関係を持っています。
周の武王が商の紺王を討伐し勝利した物語は「大武」とも「大舞」とも記され、周代の宮廷では「武舞 ぶぶ」という舞踏の一演目として演じられていました。
隋代や唐代になると武舞はより一般化して「健舞 けんぶ」と呼ばれるようになりますが、この時期に洗練され発展した民間武術の剣技や武技と一体化し、当時のトップダンサーであった公孫大娘の「剣器舞」の見事さは杜甫の詩にも歌われたほどです。
今日でも剣を使った舞は他のさまざまな身段(体の動きの姿)や武打(立ち廻り)とともに、京劇などの舞踏形式として残されています。

日本では天宇受売命=アメノウズメが最古の踊り子として知られ、歌舞の始祖神であるとされています。
アマテラスが天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、アメノウズメが「伏せた槽の上に乗り、胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押し垂れて、足を踏み轟かした」と『古事記』に記されているように、その舞は半裸で大地を踏み締めるシャーマニスティックなものだったようです。
この時のアメノウズメの「舞 ぶ」は後に御神楽=みかぐらとして宮中で舞われ、全国各地に伝わる里神楽の原形ともなりました。

安土桃山期には出雲大社の巫女だった出雲阿国=いずものおくにが、勧進のため諸国を巡業し、エロティックな「踊 よう」を披露して評判となりました。
この「踊」が各地の遊女屋で遊女かぶきとして踊られるようになり、現在の歌舞伎の元になったとされています。
このように日本の「舞」や「踊」はもともと女性のからだが持つ自然で性的な動きとして始まり、その内容は武闘的というよりも平和的で呪術的な意味を持つ身体表現だったという特徴があります。

明治期になって他の諸々の文化的要素と共に西洋からダンスが輸入されると、この踊は『礼記』楽記篇にある言葉から「舞踏」と呼ばれ、外国人との社交場として建設された鹿鳴館では連夜舞踏会が開かれるようになりました。
その後舞踏は小説家で劇作家の福地桜痴や坪内逍遥が「舞」と「踊」を合わせて作った「舞踊」という言葉に置き換えられるようになり、さらに日本の伝統的なダンス表現である「舞」や「踊」も含んで「舞踊」と呼ばれるようになりました。
明治初期の日本に輸入された西洋舞踊は主に社交ダンスと古典バレエですが、20世紀に入ると天才舞踊家ニジンスキーを擁するセルジュ・ド・ディアギレフのバレエ・リュスや、自然こそ舞踊の源だとして古代ギリシャにインスピレーションを求めたイサドラ・ダンカン、人体の動きを掘り下げ理論化したドイツ表現主義などのモダンダンスが生まれ、日本の舞踊にも大きな影響を与えました。
社交ダンスと古典バレエ、そしてモダンダンスをほぼ同時期に受け入れることになった日本の舞踊は、その後数十年の熟成期間を経て、一躍世界のダンスシーンのフロントラインに躍り出ることになります。

1959年土方巽が、日本のモダンダンスの流れに異を唱える肉体表現として、三島由紀夫による男色をテーマとした作品をベースにしたパフォーマンス『禁色』を発表し、それを「暗黒舞踏」と称しました。
質感としての肉体と空間が相互侵犯する様相を舞台上で示した土方は
「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」
であると語っています。
身体性と精神性の交わる様態の表出を試みる「舞踏」は、日本発のダンス・レボリューションとして世界に衝撃を与え、Butohと呼ばれるようになります。
こうして日本のダンスは「まい」「おどり」から輸入品としての「ブトー」、そして「ブヨー」となり、再び「ブトー」となって逆輸出されることになったのです。

2012年文部科学省は中学校保健体育授業の一環として、武道とともにダンスを必修化しました。
それ以降の十年間で武道の競技人口はほぼ半減していますが、逆にダンス人口はうなぎのぼりに増え続けており、2001年の7万人から2015年には600万人と85倍もの増加率を示し1000万人を超える日も近いのでは?と言われています。
中でもストリート系ダンスの人気は絶大で、体育の実技でも「フォークダンス」「創作ダンス」「現代的なリズムのダンス」からの三者択一で一番人気があるのが、ロックやヒップホップのビートに合わせて踊る「現代的なリズムのダンス」だということです。
駅前広場や街中で、中高生たちがダンスの練習をする姿も、今ではあたりまえに見られるようになりました。
前回のタイトルとして挙げた「ブトー・ブトー・レボリューション」はこんな形でも実現しているのです。

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