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自分の意見がない私

私が購読している、野本響子さんのnoteに心をぐっともっていかれた。

日本の教育は、キツネやら花の気持ちまで先回って考える訓練をするため、自分が本当に何を思っているのかを考える訓練ができていない。自分が本当はどう感じてるかを言語化することが先ではないか。(一部抜粋)

全くおっしゃる通りです。
周りと調和させることに長けている人間を生み出すことがゆとり教育の目的だったとしたら、大成功だと讃えたい。

ただその弊害として、現在、まさに自分の気持ちがわからなくて人生の迷子真っ最中なのだが…
挙げ句の果てには、それでいて他人の気持ちを汲み取ろうとするから、周りの大人はもっと自分の意思があって、きちんと生きていると必要以上に劣等感を感じて、自分で自分にプレッシャーをかける。

こんな風に行動したら、きっとこんな風に思われる。あんな風に言ったらきっと、空気が悪くなる。
だから、
私が我慢すれば…
周りに合わせれば…
穏便に済むならむしろそれでいい…
と今までどれほど思ったことか。


———



私は昔から、国語が得意だった。
Q.少女Aがこの時どう思ったが、またなぜそのような行動を取ったのか?答えよ。

とくに、上記のような人の気持ちを考える問題でまちがえたことは一度もない。むしろみんな100%正解する問題に、なぜわざわざ学ぶ必要があるのか?とさえ考えていた。
(なるほど、これが洗脳なのかも…)

大人になればなるほど、自分の意思を持たずに、相手ありきの考えをすると、世界はとても穏便になる。喧嘩なんてしないし、怒りもしない。
昔から、いい子だね、真面目だね、なんて腐るほど言われ続けたし、それが正しくて全てだと思ってた。

…はずなのに。
最近になってようやく、
何かが違くない?
と疑問を持つようになった。

自覚するまでどれだけ時間がかかってるんだ…
と自分を憐れみたくもなるけど、これも今更変えられない。自分らしいということのひとつとして、受け入れてみよう。

私がしていた、周りに合わせる、空気を読むという行為は、考えることを放棄していることと同じだった。周りに紛れていれば、なにも叩かれずにその場を乗り切ることができる。
でも、それじゃあ私の心は、考えは、気持ちはだれが救うのか。私以外私のことなんてわからないのに。

いつだって、私の人生には少女Aが中心にいて、自分の気持ちよりも先に少女Aがどう思うかを考えるようになっていた。

私がnoteを書くのをやめたる時、それは文字にしなくても素直に自分と対話できると確信したときだろう。
(私の予定では今年か来年にはくるはず!!)


————




これはあなたの人生です。
自分の好きなことをやりなさい。そして、どんどんやりなさい。
何か気に入らないことがあれば、それを変えなさい。今の仕事が気に入らなければ、やめなさい。時間が足りないのなら、テレビを見るのをやめなさい。
人生をかけて愛する人を探してるなら、それもやめなさい。その人は、あなたが好きなことを始めたときにあらわれます。
考えすぎるのをやめなさい、人生はシンプルです。すべての感情は美しい。食事を、ひと口ひと口味わいなさい。
新しいことや人々との出会いに、心を、腕を、そしてハートを開きなさい。私たちは、お互いの違いで結びついているのです。自分のまわりの人々に、何に情熱を傾けているのか聞きなさい。そして、その人たちにあなた自身の夢も語りなさい。たくさん旅をしなさい。道に迷うことで、新しい自分を発見するでしょう。
ときにチャンスは一度しか訪れません。しっかりつかみなさい。人生とは、あなたが出会う人々であり、その人たちとあなたが作るもの。だから、待っていないで作りはじめなさい。
人生は短い。
情熱を身にまとい、自分の夢を生きよう。

納得できないことが起こったとき、問題が起こったとき、やりたいことをするとき、考えるべきことはキツネや花のことなんかじゃない。まず自分がどう思ったかであるべきだ。

とりあえず、今の私は、うじうじしすぎてめちゃくちゃにダサい生き方をしているのは確か。

幼い頃から染み付いた思考はなかなか変えることが難しい。すぐに自責の念に蝕まれるし、周りと比べてしまう。

もっともっと自分に集中して、自分の思いをまずは考えよう。

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