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論考、差別とは何か

最近、何かと差別が耳目を集めている。
しかし、従来の差別観そのものが差別を深める構造を有していることは未だ一般的に認知されていない。

そこで、かつて国際学会のためにアメリカまで行ったのに手続き上の不備で学会誌に掲載してもらえなかった論文を元に書いた差別についての論考を公開してみる。


0.差別とは合理的理由のない区別のことである。

 辞書的な字義

1.異なる属性を持つ者同士は常に互いに互いを差別的に認識する差別心をもっている。

 自分は相手ではない。自分と異なるものを完全に理解する事は難しい。

 そのため、たいていの場合、相手をそのまま見ることなく相手に「自分が考える相手」という虚像を当てはめ、身勝手な”枠”を作ってしまっている。

 この認識上の区別に合理的理由は無い。万人は万人に対する差別心を抱えて生きている。

 例としては被差別部落民用語の「ハク」を見てもらえばいい。この語は被差別部落民以外の人間を意味する侮蔑語である。

2.異なる属性を持つ者達の力関係が均衡している場合は差別は顕在化しない。

 異なる属性を持つ能力が拮抗した二人がいるとして、互いが互いを気に入らないと対立する場合を考えてみよう。
これは差別といえるか、言えない。

 たとえ互いの差別心が同時に顕在化するとしてもそれはただの喧嘩になる。

 相手からの差別に抵抗し相手への差別に相手が抵抗する事ができるため、結果として合理的理由のない区別は起こらない。


3.差別が現実になるのは異なる属性を持つ者たちの力関係の均衡が崩れた場合である。

 力関係とは人数や暴力や権利など様々の能力の対比である。それらに開きが出れば差別に抵抗し難い状況を生む。


4、この力関係が崩れた場合において力関係が優位にある者から力関係が劣位にある者に対する差別が顕在化することになる。

 差別に抵抗し難い状況は差別を行いやすい状況でもある。

 この状況では積極的に差別心が発露され、差別されれば抵抗できないため、差別が実際に行われ、合理的理由の無い区別「差別」が実現されることになる。


5.この力関係は可変である。

 この力関係は場合によって変化するものだ。

 例えば黒人ばかりのスラム街で白人が黒人差別をしようとしているとしよう。

 実力的に不可能だ。差別をしようとしてもボコボコにされて終わる。

 だが、アメリカ合衆国全体で見ればどうか、黒人は容易に差別されうる。

 他にも、手足を縛られて床に転がされた男と武器を持った女性ではどちらが弱者であるだろうか、元大富豪の物乞いと賤民出身の資産家ではどちらか富者であるだろうか、インドの日本人とインドのインド人はどちらがより権利を持っているだろうか、昨日の優位者が今日の優位者とは限らず、ここでの劣位者が別の場所でも劣位者であるとはまったくもって言えない。

 これまで、この視点は全く無視されている。


6.故に「差別する側・差別される側」という固定的区分は不適当である。

 この区分を固定する方法はマルクス・レーニン主義的で階級闘争的だ。

 例えばソ連がロシア人を支配した時、彼らはそれまでの支配層や土地持ち農民などをブルジョワとみなして苛烈な弾圧を行った。

 その結果、自称プロレタリアートである共産党とそれまでのブルジョワの地位は逆転したが、なおも共産党は「真実、劣位にある」ブルジョワへの攻撃をやめなかった。

 同じように、北朝鮮に拉致された人々は容易に命を奪われるような圧倒的な劣位にあるにも拘わらず、それに言及したり調査することは「差別」と見做された歴史がある。

 これは「差別」と「人権」を盾にした人権蹂躙の最たるものだ。



7.この不適当な区分そのものが差別であり、差別を助長するものである。


 現在の主流となる差別対策は『一般に力関係が弱いと考えられている者』の権利に下駄を履かせることである。

 「力関係が弱い」のは一般論であって、時空間を限定した現実の一場面では力関係は容易に逆転し得る。

 故に「差別する側」と「差別される側」という概念は固定的なものではない。

これを理解せず特定の集団のみに保護を与え続け『差別される側と規定された者たち』を無条件に肯定し『差別される側と規定された者たち』を蔑ろにするならば、互いの互いに対する差別心を助長し、互いが『真の差別する側に立つため』の永久の階級闘争が起こる。

 移民を狙った乱射事件や放火、移民排斥を訴える活動家に対する暗殺、互いが互いに対する憎しみと報復を繰り返すことになる。

ちなみにネットは非対称なので、ネットでは万人が万人に差別し放題ともいえる。これはあまり好ましくない。

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