見出し画像

曾我兄弟

そがきょうだい

仇討で名高い鎌倉時代初期の武士。

鎌倉時代初期の武士。伊豆国の豪族、河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)の子息の兄弟で、兄は十郎祐成(すけなり、1172-93)、弟は五郎時致(ときむね、1174-93)と称しました。安元2年(1176)父の祐泰が所領争いから工藤祐経(すけつね)によって殺害され、幼い兄弟を連れた母が曾我祐信(すけのぶ)に再嫁(さいか)したため、兄弟は曾我氏を称しました。源頼朝(よりとも)の寵臣で、鎌倉幕府の重臣となっていた工藤祐経は、曾我兄弟を殺そうと謀りましたが、畠山重忠(しげただ)・和田義盛(よしもり)らが兄弟を救いました。成人した兄弟は祐経を討とうとしましたが、仇討の機会はありませんでした。建久4年(1193)5月に頼朝が富士野(富士山の山麓)で巻狩りを催した際、同行していた祐経の宿所をつきとめた兄弟は、夜半に風雨を冒して侵入し、祐経を殺害して父の仇を討ちました。しかし、祐成は宿衛の新田忠常(仁田忠常、にったただつね)に討たれ、時致も捕らえられて首を斬られました。

この事件は、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて成立した英雄伝記物語の『曾我物語』として描かれ、のちに曾我物(そがもの、わが国の芸能史上で最も数の多い演目をもつ謡曲・幸若舞・能・古浄瑠璃などの作品群)の題材となって全国に知られました。

歌川広重筆「曽我物語図会」「十郎」「五郎」  The British Museum Collection

歌川広重筆の武者絵「曽我物語図会」で、右が兄の十郎祐成(すけなり)、左が弟の五郎時致(ときむね)です。富士山裾野での巻狩りの場面。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?