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9月に読んだ本

先月はひどかった。1ヶ月に読めた本が3冊だったのだ。これには言い訳がある。併読していた本が10冊近くあって、そのいずれも読了できていなかっただけなのだ。苦しい言い訳だ。そんな言い訳、無くてもいい。無くてもいい言い訳をわざわざ引っ張り出してきたのはなぜか。今月は、併読していた本も含めて大量に読んだぜ、と言いたいからだ。その数、堂々の12冊!


▼『コンヴィヴィアリティのための道具』

とにかく読みにくい文章だ。原文に関係代名詞と形容詞が多いのか、長い形容が続く。主語と述語が離れすぎていて、誰が何を主張したのかがわかりにくい。例えばこんな感じだ。「巨大な道具で装備された社会は、大多数のものがもっとも高価な特権のひとそろえを要求することをふせぐ多種多様な装置に頼らねばならない(p159)」。よくわからないので続きを読んでみる。「こういう特権のひとそろえはもっとも生産的な個人たちのためにとっておかねばならないのだ(同)」。全くわからない。

思い切り想像力を羽ばたかせて解説文を書いてみると、「高度な技術を扱うための資格は一部の人にしか与えてはならない。みんなが資格を欲しがると、希少価値が下がるからだ。そのためには、一般人が資格を欲しがらないように、試験を難しくしたり、そのための学校を用意したり、その授業料を高く設定したり、ほかに楽しい娯楽を与えたりして、資格に興味を持たせないようにする必要がある。資格は、生産性の高い人だけが持つべきものだからだ」というようなことになる。「いや、そんなこと全然書いてないじゃん」というツッコミはそのとおりである。書いてないことを補足して、ほとんどイリイチの文章じゃないくらいまで頭の中で作文しなければ理解できない。これがイリイチの文章だ。つまり「自分の頭で考えろ。お金を出せば自動的に知識が手に入ると思うなよ」というわけだ。うーん、自立共生的(コンヴィヴィアル)だ。

本書が主張していることを短く表現すれば、「過ぎたるは及ばざるが如し」ということだろう。道具や制度や技術が行き過ぎると、我々は不利益を被ってしまうから注意しようね、という話だ。結論だけ聴けば「当たり前じゃん」という印象を受けるだろう。しかし、真理とはそういうものなのだろう。古今東西、正しいことは「当たり前」に聞こえるものだ。

エマソンが「大霊」と呼んだものも同様だ。西洋にも東洋にも通じる哲学、真理、システム、原理原則などはすべてつながっていて、それが「神性」であり「大霊」であるとエマソンは呼んだ。それを知るためには、自分自身のなかにある常識、道徳を直観すればいい。「当たり前」だと思う部分を見つけ出すがよい。それこそが、ほかの多くの人と共通する「善性」なのだから。それを「神性」や「大霊」と呼ぶと宗教っぽく聞こえるなら、「善性」でも「道徳」でもいい。エマソンは呼び方についてこだわらない。宇宙や自然に共通するシステムを大霊と呼び、神性と呼び、善性と呼ぶ。それは我々のなかにも共通して存在しているし、動植物のなかにも存在している。土や水や風のなかにも存在する。それがエマソンの考え方。だから自己を信頼せよ、という。

イリイチの主張もまた、「当たり前」だと思われるほどの正しさを持つ。しかし、なぜその当たり前の思想に行き着いたのかを詳しく読んでいくと、あちこちに「なるほど!」と思わせるような現代社会への洞察が観られる。1973年に書かれたとはいえ、その後の世界を予見するような指摘も多い。とはいえ、文章がわかりにくすぎる。これはもったいない。いつかフェイスブックグループの「コミュニティデザイン部」で本書の解説講座でも開催しよう。

▼『エマソンの「自己信頼」』

エマソンの『自己信頼』は名著ということになっていて、だからこそいろんな人が日本語に翻訳している。原文に忠実に翻訳する人もいれば、「超訳」として翻訳者自身が伝えたいことまで盛り込んだ本もある。本書はその「超訳」である。

エマソンは、ドイツ哲学(特にプラトンとカント)、インド哲学、中国思想などに影響を受けた思想家で、イギリスのカーライルやアメリカのソローと交友を持っていた。影響を与えた人物としては、ニーチェ、ボードレールなどが有名で、日本では福沢諭吉、宮沢賢治、内村鑑三などが影響を受けている。

本書を読むと、『自己信頼』が当時のアメリカにおける偉大な「自己啓発本」だったことがよくわかる。あえてそんな訳し方をしてくれているのだろう。自分自身を信じよう。そこに神的なるものがある。人類共通の善性がある(だから他人とも通じ会える)。万物共通の大霊がある(だから自然に矛盾しない生き方ができる)。そんなエマソンの思想が、自己啓発本テイストで語られるのである。例えば冒頭からこんな感じだ。「心に自然にわきおこる考えに従うべきだ(中略)。そうしなければ翌日には、あなたがずっと考え、感じていたことを、他人がずばり見事に言いあらわし、あなたはやむなく自分の意見を他人から聞かされて、情けない思いをすることになる」。

また、現在のSNS社会における「炎上」を思い出させる記述もある。「堅実で世慣れた人なら、たとえ激しくても教養人の怒りに耐えるのはたやすい。教養人はみずからが非常に傷つきやすく小心なので、その怒りも礼儀をわきまえた慎重なものだ。けれども彼らの気弱な怒りに大衆の憤りが加わり、無学な人や貧しい人の心がめざめ、社会の根底にひそむ無知で荒々しい力が噴き出して不満の渦が巻き起こると、どうなるだろうか。よほど広い心をもち、強く信じるものがなければ、些細なこととして超然と受け止めることはできない」。無学とか貧しいとか社会の根底とか無知とか、人や社会を階層や類型で分けようとする言説が少し気になるが、現在の「炎上」を受け止めることが難しい状況を明快に説明しているといえよう。

このように、エマソンの思想を現代語で超訳してくれているからこそ、現在の社会に重ねながら自己信頼の価値について考えることができる本である。ページ数も約120ページと読み切りやすい。


▼『自己信頼【新訳】』

こちらもエマソンの『自己信頼』の翻訳本。【超訳】と【新訳】を照らし合わせながら読むと面白い。双方に表現の工夫がある。2冊とも100ページくらいの小さな本なので、余裕がある人は2冊を並べて読むことをオススメする。訳者の解釈にブレがあるところが明確になるし、そのブレについて考えることがエマソンの思想をより深く理解するきっかけになるからだ。ちなみに、どちらも読みやすい日本語である。


▼『エマソン』

古い本である。だから日本語の表記も古くて読みにくいのではないかと敬遠しがちである。しかし、本書は読みやすい。著者の文章が現代的なのだろう。古さを感じさせない読みやすさである。エマソンの生涯をまとめたものであり、アメリカの翻訳ではなく日本人が理解したエマソンの思想を語ってくれているので、頭に入りやすい。登場するアメリカ人の人名表記が、少し古いカタカナの使い方だと感じること以外は、今もなお読みやすいエマソンの解説本だといえよう。


▼『エマソンの「偉人論」』

エマソンが書いた『偉人論』を、解説も含めてまとめた本。日本語が読みやすいので助かる。イギリスのカーライルが英雄の人生について書き、アメリカのエマソンに同じような本を書くよう進めたら『偉人論』を書いたという。ところがエマソンはアメリカ人の偉人ではなく、ドイツやイギリスやスウェーデンの偉人ばかりを並べた。これについてカーライルは「なぜ自国の偉人について書かないのか」と尋ねたが、エマソンは明快な返答をしていない。歴史の浅いアメリカには、エマソンが偉人や英雄だと思える人は見当たらなかったのか。確かに、『コミュニティデザインの源流:アメリカ篇』を書こうとして、最初に思い浮かんだのがエマソンだった。つまり、エマソンより昔の人で書きたいと思える人が思いつかなかったのだ。エマソン以後は、ソロー、オルムステッド、ライト、アダムス、デューイ、ジェイコブスなど、書きたい人がどんどん出て来るのだが。


▼『エマソンと三人の魔女』

エマソンの周辺について語られるとき、よく登場するのがヘンリー・デイビッド・ソローであり、ブロンソン・オルコットであり、ナサニエル・ホーソーンである。しかし、この本はエマソンの周りにいた3人の女性を登場させている。それがエリザベス・ピーボディであり、マーガレット・フラーであり、ルイザ・メイ・オルコットである。超越主義者としてのエマソンに共感しつつ、男性たちとは少しずつ違った道を進んだ女性たちの生き方を知ると、当時のコンコードというまちで何が起きていたのかが、より鮮明に見えてくる。3人の女性からエマソンや周辺の人たちの取り組み(無謀なものも多かった)がどう見えていたのかがまとめられているありがたい本である。


▼『わらの家』

建築家の大岩剛一さんが、わらの家について語る本。本人は、全国に藁や葦を使った建築を建ててきたため、そのノウハウをたくさん持っている。そのことが書かれている箇所もあるのだが、それよりも地域の生態系と建築物との関係についてページを割いて解説している。自然の物質循環のなかに建築物が位置づくことの大切さ。それが、建築を使う人間にとっても快適であること。そんなことを絵本でわかりやすく説明してくれている。


▼『ロスト・シティTokyo』

建築家の大岩剛一さんは、吉阪隆正という建築家の研究室で学んでいる。吉阪さんは、フランスのル・コルビュジエという建築家の事務所で働いた経験がある。コルビュジエというのは、近代建築の代表的な建築家だ。つまり、大岩さんはコルビュジエの孫弟子のような立場であり、ともすれば近代建築を更に先へと進める役割を担うような経歴の持ち主である。ところが、その考え方は全く違う。わらの家を建てる。琵琶湖の葦を使って高断熱で調湿性に優れた壁をつくる。「世界中のどこにでも建てられる近代的な建築物」をまるで目指さない。吉阪さんも、コルビュジエの思想をそのまま日本に持ち込んだわけではなかったが、大岩さんはその吉坂さんの反モダニズム的な思想を大いに引き継いだような実践を続けている。そんな大岩さんのエッセイ集が「ロスト・シティ」と名付けられた本書だ。路地や原っぱや広場など、大岩さんが好きだった空間がどんどん失われていく東京を嘆き、そこにあった価値について語る。バブル経済の時代には耳を貸す建築家が少なかったと思われる主張だが、いま読むと極めて正しいことを述べていると感じられる。大岩さんは2019年に亡くなってしまったが、こうした思想と実践を誰が引き継いでいるのかが気になる。


▼『民藝入門』

鳥取の新作民芸の父、吉田璋也が書いた民芸入門。吉田さんの考え方や、柳宗悦の考え方をわかりやすく解説してくれている。当時、カラーブックスというのは全編カラー刷りの貴重な本だったのだろう。吉田は、フルカラーの文庫本を「ポケットに入る美術館として持ち歩いてほしい」と書いている。今ならスマホのなかに入れられるような画像と文章だが、本がありがたい点は自分の気持をメモすることができる点だ。確かにスマホも同じような大きさであり重さなのだが、ウェブサイトなどに自分が感じたことなどを書き込むのが難しい。できないことはないのだろうが、独特のアプリなどを使うため端末を変えると表示されなくなったりする。数十年ぶりに開いた本のページに、昔の自分が書いたメモが残っているときの悦びをスマホで感じるのは難しい。その点、紙の本はまだしばらくメモを残しておくことができる媒体として活躍してくれることだろう。


▼『吉田璋也の世界』

吉田璋也が指導した新作民芸について、鳥取民藝美術館にあるものを中心に掲載したのが本書である。1973年に出版された『民芸入門』に比べて、大きなページであり、写真が美しく、ハードカバーでしっかりした作りである。吉田は『民芸入門』をポケットに入る美術館として持ち歩いてほしいと書いたが、写真をしっかり眺めたい人には断然こちらをオススメする。とにかく写真が美しい。同時に、最初と最後にしっかりとした論考が収められている。これまた読み応えのあるものであり、吉田の生涯をしっかり追うことができる。西暦だけでなく、何歳のときに何をしたのかがわかるように表記されているのがありがたい。


▼『吉田璋也のものづくり』

吉田璋也が鳥取で何をしてきたのか。新作民芸とは何か。発見された民芸と、新たに作り出す民芸の関係はどうなっているのか。民芸をめぐるさまざまな疑問について、実践的にその答えを示してくれた吉田。その足跡をたどることができるのが本書である。『吉田璋也の世界』でじっくり写真を楽しみ、経歴を把握し、そのうえで本書を読むと個別の事例の背景が理解できるだろう。


▼『わたしの家』

イラストレーターの大橋歩さんが家を建てた話。しかも2軒分。43歳のときに1軒目を建てて、その7年後の50歳のときに2軒目を建てた。その2つの家を建てる経緯を綴った本。1軒目は東京の世田谷区にRC造で、2軒目は熱海の海が見える丘の上に木造で、同じ設計者に手伝ってもらって建てたという。

私もまた、いま仕事場兼自宅を設計しているところなので、面白おかしく読み進めた。「いや、設計やっているんだから、住宅の設計については詳しいでしょう」と指摘されるかもしれないが、施主になるのは初めてなのだ。こんな単純なことに気づかないのかと自分でも思うのだが、慣れないことはやはりドキドキする。当然といえば当然なのだが、施主が「こうして欲しい」といえば、設計者はほぼ「そうしましょう」と聞き入れてくれる。でも、本当は「こうして欲しい」という言葉のなかに、2割くらいは「もっといい方法はある?」という気持ちも入っているのだが、施主の意見は設計者にとって強く響く。思い返してみれば、自分が設計者のときはそうだった。ましてや、今回設計を手伝ってもらっている人は、とても優しい心持ちの人。私なら施主に「いや、それはやめたほうがいいですよ」と言いそうなことでも、ひとまず受け入れて「検討してみます」って答えてくれる。施主としてはありがたいが、たまに「本当にこれでよかったのかな?」と思うこともある。

そんな「施主初体験」のわたしにとって、2軒の住宅の施主を経験した大橋さんの戸惑いや怒りや、諦めや満足が、誰にも忖度されずに書かれた本書はとても参考になる。ある程度は主張し、ある程度はやり直ししてもらい、ある程度は諦めて受け入れ、ある程度は自分で使いこなすしかない。施主ってそういう生き物なのだということを教えてくれる。簡単にではあるが、2軒分の施主を疑似体験できる本だ。そう、これで私は3軒目の住宅を建てる施主になれたわけだ(うち2軒は疑似体験だが)。

極端に細長い敷地に建てる仕事場兼住宅ということで、今回の案件はとてもややこしいらしい。私が基本計画までiPadで描き、そのフニャフニャな落書きを設計者が図面化してくれている。その図面に対して、こちらからイメージ写真などを何枚も送って細部の検討を進めてもらっている。施主でもあるが、設計者の一部の役割も担うような関わり方だ。その意味では一般的な施主とは違うのかもしれないが、そんな進め方でつくった建物について、完成後には経緯をまとめてみたいと思わせてくれる本である。

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