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4月に読んだ本

4月は新たなことが始まる季節。しばらくお休みしていた大学での教育も、この4月から再開させることにした。今回は建築学部で教えるので、少しは建築系の本でも読みたいと思いつつ、なかなかそこにたどり着けなかった。今月は早々に9冊読破したのだが、そのなかに建築系の本は含まれていない。来月以降は少しずつ建築系を狙いたい。


▼『ノルウェーの森(上)』

先月の「百冊挑戦」イベントで、仲間からオススメされたのが『ノルウェーの森』。あまりに小説が読み進められない僕に対して、村上春樹なら読めるだろうという提案があった。村上さんの小説は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだことがあるが、自分には長すぎて苦痛だったと答えると「信じられない」という顔で、「それなら『ノルウェーの森』だな」と推薦してくれたのである。つまり「これがダメなら、あなたは本当にダメね」という【最後通告】のような推薦本である。で、実際はどうだったのか。とにかく辛い本だった。まずは上巻の1章がつらい。まったく意味がわからない。主人公が誰なのかわからないが、飛行機でドイツに到着する。なぜドイツなのかがわからないのに、主人公は「またドイツか」と思う。そこは「ノルウェー」であって欲しい。そのタイトルの本を読み始めたのだから。まぁいい。ドイツでもいい。我慢して読み進むと、草原の風景についての記述が延々と続く。なぜ草原?分からない。そして「あの暗い日々」とか「彼女」とか、読者がまだ知らない話がどんどん出てくる。で、主人公の記憶にある「彼女」が急に怒り出す。「どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」と。まったく意味がわからない。何がわからなくて、なぜ面倒をみることになっているのかわからない。というか、主人公はなぜこの「彼女」の面倒をみることになっているのか。いや、それはドイツでの話なのか?ノルウェーでの話なのか?その草原はどこの草原なのか?まったく分からない。きっとこれは、その後の章を読み進めば謎がするすると溶けていって気持ちが良くなるタイプの本なのだろう。そうじゃないかもしれないが、そうであってほしい。でも、そうであったとしても、1章に謎が多すぎる。もっと少なくしておいてもらわないと、謎のすべてを記憶できない。記憶できないと、そのことが気になって先に進めない。先の章を楽しめそうにない。そして本を閉じて、二度と開かなくなる。。。とまぁ、普段なら1章の途中で読むのを諦めるところだが、百冊挑戦の仲間からの【最後通告】である。我慢して読み進めることにした。


▼『ノルウェーの森(下)』

我慢して読み進めると、上巻の途中からだんだん意味がわかってくるようになる。その我慢の意味はわからないのだが、それでも内容の意味がわかるようになってくるのは嬉しい。一体、誰に喜ばされているのかもわからないのだが。下巻になると、男女のドキドキするような関係が増えてくるので、次はどうなるのだろう?と期待して読み進むようになる。しかし、次第に「これを読んで何か得るものはあるだろうか?」などと俗なことを考えてしまうようになる。徐々に、自分が小説を読み進むのが不得意な理由がわかってきた。つまり、僕は文章を読むのが不得意なのである。文章から情景を思い浮かべ、その情景のなかに入り込んで状況を理解するのはとても体力のいることである。がんばって入り込み続けないとすぐに脱落してしまう。少しでも他のことを考えたり、読んでいる行を飛ばしたりすると、その状況がどんどん理解できなくなる。僕にとって、読書は集中力を強いられるものなのである。それほど集中力と体力が必要なものなら、読んで何かの役に立つものであって欲しいという気持ちになる。これだけがんばったのだから、新しい知識が手に入るとか、仕事の役に立つ情報を得られるとか。小説を読むのが好きな人はきっとこんなことは思わないはずだ。感動だったり、憤りだったり、そういう感情を揺さぶられることの対価として本の代金と読書の時間を使うことに納得しているのだろう。しかし、僕は読書が苦手なのである。その苦手な読書をするのであれば、何か役立つ情報が欲しい。即物的なのである。ところが小説はほとんどそれを与えてくれない。特にこの「ノルウェーの森」は僕にとって仕事に役立つ本ではない(著者もそんなことは意図していないだろう)。だから読み進むのが苦痛なのである。「ほかに読まねばならない仕事の本があるのに、この小説を読み進めていていいのだろうか?」という罪悪感に苛まれる。苛まれながら読み進むのに、役立つ情報は一切出てこない。しかも、ところどころが謎になっていて、「種明かしは後でね」というメッセージだけが伝わってくる(しかも最後まで種明かしされないこともある)。これが苦痛なのだろう。そう考えるとよく分かるのが、同じ小説でも歴史小説とか伝記小説は比較的好きだという点である。原田マハさんの『リーチ先生』が好きなのは、それが7割くらい歴史的事実だったからだ。こういう小説なら喜んで読み進められる。読んでいて面白いし、仕事に関連する知見を手に入れられる。これでよくわかった。僕は「どうせ活字を読むのなら、仕事に役立つ情報が手に入れたい」と考えている俗な人間であり、小説をじっくりと味わう感性を持ち合わせていない人間なのである。これは仕方のないことなのだから、今後は伝記小説を選んで読むことにしたい。なお、『ノルウェーの森』は、上下巻だから2冊読破とカウントされるというメリットだけを信じて読み終えることができた。今月は、まずこれで2冊読んだことになる。そして、そこから何か役立つ情報を手に入れられないかと考えに考えた結果、1970年前後の東京というのは「寂しい人達」が多かったのだな、という歴史的考察に至った。そんな考察、小説の読後に必要ないのだろうけどw。1955-65年の間に、全国の中山間離島地域から「金の卵」と呼ばれた集団就職が繰り返され、東京などの都市部に多くの若者が集った。さらにその後、遅れて大学進学者たちが都市部に集まった。こうして集まった人たちにとって、東京砂漠は人間関係が希薄で、寂しい場所だったのだろう。寂しくて寂しくて、一部の人は徒党を組んで「体制反対!」と学生運動をしたし、一部の人は学生運動を横目に見ながら次々と男女の関係を持ったし、一部の人は寂しさに悩んで死を選んだ。いわば、寂しさを紛らすための3種類の方法だったといえよう。本書は、その3種類のうちの後者2種類について書いた本である。そういう時代の雰囲気を知ることのできる歴史小説である。そうやって無理やり理解し、得るものがあったと自分を納得させることにした。でもたぶん、今後この手の小説は読まないだろう。いや、読めないだろう。何しろ、これが【最後通告】だったのだから。


▼『「美の法門」柳宗悦を読む』

美しさというのはどういうものなのかを、仏教の教えと照らし合わせながら語った柳宗悦の「美の法門」。その内容を弟子のひとりである水尾比呂志が解説した本である。まずは本の作り方が丁寧だ。東峰書房の本は概ね丁寧であり、この本の装丁は同じく柳の弟子である柚木沙弥郎だという点も嬉しい。中身はというと、「美しいとか醜いとかいう判断が生まれる前の段階にあるのが本当の美しさである」ということを、仏法に照らし合わせながら説明しているもの。自分が作るものから醜い部分を取り除いて美しくしようというのは、すでに美醜の二項対立に取り込まれてしまっている。ここからは本当の美しさは生まれない。むしろ美しいものを作ろうという気持ちなど微塵もないところから生まれたものに美しさが宿る、と柳は言う。職人が手仕事でいくつもいくつも安い茶碗を作っていると、そこに美が宿ることになる。現在、茶道などで最も評価されているものは朝鮮半島でかつて作られた安物の茶碗であることなどを引き合いに出して、芸術的計略性のごときものを否定する。あるいは中国大陸が宋の時代に作られた器が最も美しいとされているが、そこに絵付けしていたのは当時10歳くらいの子どもたちであったことを明かす。だから、美しさは材料の高級さとは関係ないし、芸術的センスとも関係ないし、年齢とも関係ないし、熟練度合いとも関係ない。「美しくつくってやろう」と考えないこと、土をなるべく無駄にしないようにとか、なるべく手間のかからないようにとか、誰でもできるようにとか、そういう試行錯誤のなかから美しさは生まれているのだという。だから、凡人でも伝統的なものづくりに従って作っていれば結果的に美しいものを生み出すことができる。むしろ、伝統を否定し、独自の美しさを生み出そうと躍起になっているアーティストやデザイナーこそが、薄っぺらい美しさ(醜い部分を取り去っただけの美しさ)を生み出していて、早晩人びとに飽きられるものを量産している。「オリジナリティ」とか「批評性」とか、そんなことを意識しながらものづくりをしているうちは大したものを生み出すことはできない。柳はそう喝破したのである。この考え方は痛快であり、コミュニティデザインが生活者とともに物事を生み出そうとするときの励みになる。「素人が集まって何ができるんだ?」「ワークショップからは何も生まれない」などと言われることもあるが、本書を読むと、そういう言説こそが二項対立の世界から抜け出せていないものだと感じざるを得ない。ただし、著者は師匠である柳の言葉を大切にし過ぎるところがあり、本書の内容は繰り返しが多く、同じ話が何度も登場する。「大切なことだから何度も言うね」ということなのだろうと我慢して読んだが、もう少し簡潔に述べても良さそうなものだ。著者の文体に民藝的な美しさが感じられないのは若干残念な点である。


▼『One Day Esquisse』

2020年4月。新学期が始まったというのにコロナ禍で大学へ行けない。そんな芸術大学の学生が、教員である原田祐馬さんに「何か課題を出してください」と問いかけた。それなら、ということで1日で終わりそうな課題を出してみた。学生はそれを1日でやり遂げ、2人で感想を送りあった。1日で終わるつもりが、なかなか楽しいので他の学生にも声をかけてみた。すると10人以上がやりたいという。そこで原田さんは、1日でやり遂げる課題を出題し続けた。自宅から撮影できる写真を使ったもの、家の中にあるものを使って作り出せるもの、想像力を働かせれば移動せずに生み出せるもの。そういうものの出現を期待した課題が毎日出される。メンバーはそれを夕方までに作り上げて写真などを提出する。これについて夜中までオンライン講評会が続く。こうして生まれてきた作品たちをSNSで公開していると、「私も参加したい」という学生が増えたという。結局、50人弱の学生が毎日課題を受け取り、可能な人がそれに応える。原田さんは毎日課題を考え、発信し、夕方には提出されたものを確認し、コメントを加えていく。そのうち原田さんの友達であるクリエイターたちも出題を助けてくれたり、学生が出題したがったりした。コロナ禍におけるクリエイティブな遊びだといえよう。その内容をまとめたのが本書だ。何しろ課題が秀逸である。つい「やってみようかな」と思えるような手軽さと、しかしやってみると芋づる式に調べたいことが出てくるような難解さ。具体的なようで、いざつくり始めると抽象的な疑問が湧いてくるような問いかけ。出題者も応答者も、さぞかし刺激的な毎日を送ったことだろう。結局、このやりとりは45日続いたという。原田さんたちの問いかけ(これが本当に興味深いものばかり)と、それに答えた学生たち(ここにも驚くべきクリエイティブさが含まれている)とを、じっくり味わえる本だ。


▼『逃げおくれた伴走者』

北九州市に誕生する「希望のまち」のプロジェクトにコミュニティデザインが必要だと声をかけてくれた奥田知志さんの著書。牧師であり、ホームレス支援を続けてきた奥田さんが日々綴った文章が元になっている。ホームレス支援を続けてきたのは、逃げる勇気がなかったからだと表明する奥田さん。勇敢ではない。弱いのである。なぜ奥田さんはわざわざ自分の弱さを表明するのか。弱さを表明し、助けを求めることが当たり前の地域社会を目指しているからだ。だから自身が率先して弱さを表明する。クラウドファンディングで「助けて」と呼びかける。子どもや若者は「誰にも迷惑をかけずに、自立して生きていける人になりなさい」と言われて育つ。すると誰にも助けを求められない人になる。それが生活困窮への道筋を作ってしまうし、つながりを切ってしまうし、自死を選ぶことになってしまう。ホームレスというのはハウスレスではなく、ホームだと思えるような人とのつながりがない状態のことを指す。だから部屋と金を渡せば解決する問題ではない。部屋と金だけ渡しても、数ヶ月後には同じ状態になるだろう。つながりがないし、地域社会の雰囲気が厳しいのである。信頼できる人間関係を構築し、地域社会の考え方を変えていかねばならない。そうしなければ、解決しても新たな困窮者が地域社会から生まれてしまうからだ。今回、奥田さんたちが進めようとしている「希望のまち」プロジェクトでは、その場所を通じて地域住民の方々が対話し、学び合い、視座を変化させられるようなプロセスが求められている。まさにコミュニティデザインが求められているといえよう。とても楽しみなプロジェクトである。本書のなかには、ドキッとするような言葉や思想がたくさん登場する。タイトルからしてすでにドキッとするのだが、「ホームレスを排除すれば地域活性化は完了したことになるのか」「生産性の高い社会は、人びとが自己表現できる社会である」「【きずな】のなかには【きず】がある。【きず】を再配分する仕組みが必要だ」「大変なことは不幸なことではない。大変だけど面白い社会を実現させたい」「生老病死の四苦は生が筆頭である。生は思い通りにいかない」「どんな病気も、心がわくわくしないと治らない」「自己責任を強調しておけば、困っている人に関わらなくて良くなる」などなど、ページを捲るごとに赤ペンで傍線を引きたくなる言葉に出合う。そして思う。「まだまだできることはありそうだ」と。


▼『解読ウェーバー:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

この4月から、関西学院という教育機関で建築を教えることになった。久しぶりの建築教育だということで張り切って通勤を始めた。まずは新任教員の研修がある。会場に集まった50人ほどの新任教員はさまざまな年齢である。若い人ばかりではなく、ある程度の経験を持つと見られる方も多い。どうやら関西学院はキリスト教の教えを広めるためにつくられた学校らしい。新任らしく、新鮮な気持ちで歴史に耳を傾ける。そんな話のなかで、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本が紹介された。時間にして3分程度だろうか。マックス・ウェーバーという人が書いた本で、そのなかには「プロテスタントはお金儲けをしてはならない、というわけではない。むしろ懸命に働き、お金を儲けることは奨励されていた。たっぷりお金を儲けるが、生活は質素で禁欲的であるべきだと考えられてきた。そうするとお金はどんどん貯まる。それを社会事業のために寄付することが尊いと考えられていた」ということが紹介された。そのうえで「だから関西学院の卒業生には裕福な経営者が多いのです」と続いた。これは面白い視点だ。キリスト教といえば、お金儲けを否定しているようなイメージがあった。聖書も読んだことのない人間の勝手なイメージである。しかし、プロテスタントという教派では金儲けが推奨され、同時に質素倹約で禁欲的な生活も励行されていた。結果的に、プロテスタントには経済的に豊かな人が多かったという。そのうえで、貯めたお金を寄付して死んでいく。子や孫に残すと子孫が堕落するので、それだけは避けねばならない。そんな話を聞いたものだから、急に『プロ倫』なる本が気になった。調べてみると、その本を解読した本があるという。すぐに手に入れて読んでみた。キリスト教のさまざまな教派、なかでもプロテスタントの特徴が詳述されていた。さらに、プロテスタントのなかでもルター派、カルヴァン派、メソジスト派、バプテスト派、洗礼派(クエーカー派など)と、それぞれの特徴が整理されていた。関西学院はメソジスト派、北九州市でこれから始まるコミュニティデザインプロジェクトを依頼してくれた東八幡教会はバプテスト派だということもわかった。教派の特徴がわかり、それらと前期資本主義の精神とに共通点があることを理解できたことは収穫だった。キリスト教、とても興味深い。いつか『聖書』を読んでみたい。


▼『学校の枠をはずした』

いろんな意味で「くやしい!」と思わされた本。内容は、東京大学のチームがユニークな小中学生を集めて5年間に渡って続けてきたプロジェクトを取材してまとめたもの。毎年、10-30人くらいの参加者がいて、それぞれが1年間、いろんなミッションに挑戦していくというもの。そのミッションがいずれも面白くて、トンチが効いたものが多い。こんなプロジェクトが動いていたなんて知らなかった(くやしい)。もっといえば、僕もこのプロジェクトに関わりたかった(くやしい)。さらに、僕が小学生だった頃にこのプロジェクトがあれば嬉しかった(くやしい)。そして、文章が小気味よくてどんどん読み進められる。丁寧な取材を経てエッセンスがまとめられた本だということが感じられる。いい仕事である(くやしい)。聞けばこの本、「どく社」という新しく生まれた出版社の第一号案件とのこと。気合いが入っている。そりゃそうだ。何しろ、自分たちが立ち上げた出版社の記念すべき最初の刊行物なのだから。ものすごく気合いが入るはずだ。「その気合いがこの値段で購入できるならお買い得!」と思わせてくれるほどの気合いを感じる。


▼『日本列島回復論』

著者の井上さんを含む鼎談に参加することがきっかけで読んだ本。これがすこぶる面白かった。1970年代に読まれた田中角栄の『日本列島改造論』をもじった『日本列島回復論』というタイトル。前半は縄文時代からの日本人の生き方や、日本経済の変遷などについてまとめられていて、ここを読むだけで我々がなぜいまこういう生き方をしているのかがよくわかる。経済成長がなぜ大切だと思われているのか、社会保障費をどうやって確保しようとしてきたのかなどが、構造的に理解できるだろう。しかし、それらの方法がどれも頭打ちになってしまった今後は、どうやって生きていけばいいのだろう?と悩むあたりから、これからの生き方のヒントが登場する。1万年も続いた縄文時代が採集生活を営んでいたことから、そもそも中山間離島地域には食材を生み出してくれる「天賦のセーフティーネット」としての役割があったはずで、それをみすみす「田舎だから」とか「不便だから」とか言って捨ててしまうのはもったいないこと、「天賦のセーフティーネット」を活かして「食べていくことはできる」状態にしたうえで、自分がやりたいことをウェブ2.0の技術を用いて実現してしまえばいいということなど、具体的な方向性が示されている。そのうえで、さまざまな食材を提供してくれる中山間離島地域のことを「山水」と呼び、そこで生活する仲間や住民とのつながりを「郷」と呼び、それらを合体させた「山水郷」というキーワードを提起する。この山水郷に可能性がある。21世紀的なテクノロジーを最大限に活かして山水郷に生きる。それを実践している人がすでにたくさんいる。こうした生き方を紹介しながら、今後の我々の生き方の可能性について語っているのだ。本書を読んで、全国の山水郷を訪ね歩きたい気持ちになった。なお、まさにいま東京の「good design marunouchi」という展示会場で「山水郷のデザイン展」が開催されている。ここでは、西粟倉村、鯖江市、雲仙市で活動する人たちが山水郷の視点から読み解かれる展示があるので、全国の山水郷を訪ね歩きたいと思う人はぜひ見に行って欲しい(緊急事態宣言によって展示期間が変更されているので注意が必要)。


▼『資本主義を乗りこえる』

内山節さんは、僕にとって「迷ったときに参照する道標みたいな人」である。ほかにもそういう人が何人かいて、存命の方でいえば暉峻淑子さんとか、辻信一さんとか、広井良典さんとか、「迷ったときに手に取る本の棚」にはそういう人たちの本が並んでいる。最近の興味はもっぱらキリスト教と資本主義なので、内山さんが書いた(というかしゃべった)資本主義の本も参照しておきたいと思って本書を手にとった。東北の農家が1年に1回、内山さんを招いて勉強会をしているそうで、2017年、2018年、2019年の3回分がそれぞれ1冊の本としてまとめられている。本書はその2018年分である。目次は第1講から第4講とシンプルな構成。この勉強会、まる1日かけてやっていたのだろうか。いわば1時限目から4時限目のような構成である。しかし、この内容を1日で聞くとなると、頭の整理が追いつかないような気もする。本として文字化してくれているから、自分の速度で読み進めることができるし、咀嚼したり理解したりできるというもの。この内容をシャワーのように浴び続けたら、頭が飽和状態になって消化できないのではないかと思う。その意味では、4つの講話が1冊の本にまとめられたのはありがたいことだ。内容としては、資本主義の基本的な性質を解説したうえで、その危険性や限界性を指摘し、そこから距離を置こうとする若者が増えている理由を説明しているというところだ。自然環境や共同体のあり方などが「自分だけ儲かればいい」という気持ちを長続きさせないのではないかという推論や、資本主義は自由に振る舞えば自滅する仕組みであり、危険性のあまり介入すれば延命になるという特徴など、興味深い指摘が続く。いま、資本主義についての本を書こうと思っているので、その点からもすごく参考になる内容であった。

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