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「菜根譚」を読み人生の逆境に立ち向かう

嚙めば噛むほど味わいが増す野菜の根のような古典

10年ほど前から、学生時代の友人を中心に小さな古典輪読会をしています。

科学者、ビジネスパーソン、アーティスト、子どもなど異なる背景を持つメンバーでゆるく長くというコンセプトです。

私自身は、古典を読む醍醐味は、その時代特有の価値観を知るのと共に、時代を超えて現代の我々にも通じる共通した思いや悩みなどを知ることで、生きるヒントをもらったりしています。やはり読みつがれてるだけの真理があります。

今回は、「菜根譚」。

洪応明が明代末期(1573〜1620年)頃に記した書物と言われています。


この本が輪読図書に挙がるまでタイトルすら知らなかったのですが、読んでみて、いまの自分に必要な漢方薬のような癒やしの要素がたくさん詰まっていました。

「菜根譚とは、野菜の根は堅くて筋が多いけれど、それを苦にせずよく嚙めば、世の中の真の味を理解できるという意味」

輪読会でも、まるで校長先生や上司に諭されている気がしたという感想がありました。人生のフェーズによって感じ方も変わりそうです。

中国で400年以上前から読まれてきた菜根譚には、時代を超えてなお味わいを増す題名通り菜根のような一冊です。

次々と出版される現代書もよいですが、時代という時間に磨かれて読みつがれる古典、なかなかよいです。そして読み始めるなら、敷居が低い角川ソフィア文庫のビギナーズクラッシクスや漫画版もおすすめです。

失敗は成功のもと

「恩寵を受けている時にとかく害を生ずるものだ。だから、得意快心の時には、すみやかに周囲に目配りしなければならない。失敗した後にかえって成功を収めることがある。だから、思うようにならぬことがあっても、決して手を離してはならないのである。」(前集10)P28

いやはや今成功している人にとっては怖い言葉でもありますし、失敗していると思っている人にとっては希望が持てる言葉だと思います。

僕自身にとっては、いまは希望が持てる言葉です。

自分を含め成功しているときには油断してしまいがちです。しかし、本当はそのときから失敗の種が身の回りにはあるのです。

ビジネスの世界でも当てはまりますね。

マーケットのリーダーだったがゆえに、次のイノベーションが起きた時に乗り遅れるということはよくあることです。

たとえば、ソニーのMDとアップルのiPod、デジカメとスマートフォンの関係、少し先だとハイブリッド車と電気自動車なども同じことが言えるかもしれません。

苦心の中にある幸せ

「あれこれ苦心している中に、とかく心を喜ばせるような面白さがあり、逆に、自分の思い通りになっているときに、すでに失意の悲しみが生じている」(前集58)P74

あまり私生活ではないですが、仕事では、悶々、もやもやとすることもあります。しかし、その悶々とした状態こそ、成功への最初のきっかけではないかと、この節を読んで思えました。
苦心や違和感は、次の成功への最初のフェーズだと割り切って、その苦しみにぶつかり耐える勇気が必要ということですかね。

窮したら初心に返る

「事業が行き詰まり勢力が縮まってしまった人は、その初心に立ち返ってみよ。功績があがり行動が頂点まで行った人は、その末路がどうなるかということをよく考えてみる必要がある。」(前集30)P47 

日々様々な意思決定を続けて、本来の自分が思い描いていた夢や目標から外れてどうも仕事や私生活がうまくいかなくなる場合もあるでしょう。

私自身も、そう思うところがあり、この文章は強く響きました。そんなときは、初心に戻る。

僕の場合であれば、サラリーマンを辞めて独立したころにこれがやりたいと思ったいたけれど、日々の業務や暮らしの中で置き換わってしまった自分のモードをもう一度思い出すことをしました。

美しきものの由来

「糞土を食べるクソ虫は誠にきたないものであるが、これが変態して蝉となり、清らかな露を秋風のもとに飲む。腐った草には光などないが、これが変化して螢となり、いろどりを夏の月に輝かす。ここからわかるのである。清潔なものは常にきたないものから出てくるし、明るいものは常に暗いものから生ずるということを。」(前集24)P40

光と陰のバランスについて思いを馳せました。これらは本書でも触れられているように紙一重で、明暗のゆらぎの中にあるのかなと思いました。なんだかスターウォーズのフォースとダークサイドの力関係と似ていますね。
善悪も本来は紙一重。
昨今、メディアだけでなくSNSにおいても、主張の是非や、悪者であるとレッテルを張る傾向がより強くなっているように感じますが、絶対的に悪であることなど少ないのではないでしょうか。
逆も然り。善だと思われていたジャーナリストが犯罪行為をしていたという事件も記憶に新しいところです。
人の行為の過程も結果も、善悪、光と陰は、実は本当に紙一重なのかもしれません。
そのことをよくよく意識して、安易に人の評価にのっかるのではなく、ものごとを深く見る眼を鍛える必要性を感じました。

真の仏は家庭の中に

「家庭の中にこそ一個の真の仏があり、日々の生活の中にこそ一個の真の道がある。まさに人の心が誠で気が和らぎ、穏やかな顔つきで優しい言葉を使い、そして父母兄弟の間がまるで体がとけあうように気持ちがお互いに通じ合えば、正座をして息を整え、座禅して年を凝らすことよりも数万倍の効果があろう。」(前集21)P38

何気ない日常にこそ幸せがあり、ことさら正座をしたり、座禅を組まないと心の平穏が得られないのは思い込みであると述べています。
これはいまでは同意するところです。
僕はかつて勤めていた会社を辞めた後、インドで100時間のヴィパッサナー瞑想にも参加したことがあり、座禅を組んで聖なる沈黙を守ったものです。
当時は、そうやって雑念を振り払い、人生の中間、棚卸していました。またその後の日常でも、一日10分程度の簡単な瞑想を続けていました。
しかし、いまは日常で瞑想を必要としていない自分がいます。もちろん、さまざまな生活上の制約から長時間の瞑想参加や日常でも時間の確保が難しいということもありますが、家族と共に過ごす日常時間の中でこころが静まっていく実感があります。
もっとも、この先はどのような状況になるかはわかりませんけれども、ときに揺さぶりがあるのは普通だと思うので、中庸に戻ってこれるゆとりを持っていたいものです。


以上、「菜根譚」からいくつかとくに印象に残った言葉を抜粋し、感想を記しました。輪読の場でも、メンバーで響く箇所がかなりばらついており、それこそライフステージやいまの公私の状況によって、味わいが変わるようです。

今後も、そばにおいてときどきページをめくってみたい一冊です。

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