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なぜ続く「国際的公開虐殺」

 コルデリア・エドヴァルドソン『ユダヤの星を背負いて ― アウシュヴィッツを生き抜いた少女』(山下公子訳、福武書店、1991年)
 昨年暮れ、名古屋市内の老舗書店の閉店セールを覗きました。いつもがらがらなのに、閉店と知ると混雑するんだよなあ。その例に漏れずわさわさと店内に集まった人をかき分け書棚を眺めていると、見つけた。「『アンネ・フランクの日記』は収容所に入る前で終わってるじゃないの!」というハラ帯を巻いた本。このコピー、うまいね。挑発的だ。
 読む者すべてが涙を流す世界的ベストセラーに、絶滅収容所の生き残りの娘がケチをつけているようだ。「国際的公開虐殺」ともいわれるガザ地区への攻撃が昨秋から続く。かつて600万人も虐殺された民が、一体なぜ4カ月で3万人近くも「虐殺」する側に立てるのか。そのユダヤ人の心情が謎だった。で、迷わず買った。
 解放後、暮らしたスウェーデンは清潔過ぎて窒息しそうだった。著者は書く。「ここは異邦人の地、歴史を持たぬ土地だ。塹壕がぱっくりと口を開けてもいなければ、爆弾の空けた穴もなく、炎の巻き起こす熱風もない」。「虐待の跡著しい骸骨も、金歯を折り取ってある頭蓋骨も、やせ衰えた子どもの屍体も、何一つ。これほどの潔白の中では息をすることもつらかった。出発しなくてはならない」(pp.152-153)
 そしてジャーナリストとしてイスラエルに行った。
 「火傷した子どもは火を探すという。闇に包まれた都市にやってきた時、戻ってきたのだとわかった。これこそ、なじんだ現実だった。ここに残りたいと思った。」(p.159)
 「(第4次中東戦争の初期)迫りくる滅びと、その地の人間とは、また会ったなという親しみをこめて目を合わせた。生き残りの者たちは、自分たちが身に付けたただ一つの生き方、ただ一つの仕事と任務に戻った ― 生き残るための戦いに。」(同)
 「ここでは、人間と抹殺とは敵対者として向かい合っている。最初から結果がわかっているわけではない。今度は違う、これは公平なゲームだ。」(同)
 「ヨーム・ハショア(ホロコーストを思う日)。私たちは思い出す。毎年国中にサイレンが鳴き声を響かせ、あらゆる交通が止まって人間が塩の柱のように、道で、学校で、職場で立ち止まる時。私たちは振り返り、思い出す。死者を、そして私たち自身を。生き残った者は死者の手を取り、私たちは生に向かって向きを変える。私たちの生であったもの、そして今もあるものへと。この国で、私たちは皆死に取り憑かれていると、誰かがいつか言った。(中略)英雄と殉教者を讃える記念碑や顕彰板は国中に広がっており、……私たちの蜂起、私たちの勝利、そして敗北が記されている。(中略)私たちは自分を追いかけ、ズタズタにする。そのために私たちは生きている」(p.158)
 わかりづらい。彼女にとって生きるというのは「生き残る」こと、らしい。それは「最初から(勝敗の)結果がわかっていた」収容所ではなく、どちらが死ぬか明らかではないという意味で「公平なゲーム」を生きているのだという。そのゲームで生き残ることは、「自分を追い立て、ズタズタにする」ことなのだが、それが「生きる」ということだというのだ。敵対者と向かい合い生き残る。そのためには敵対者がいるこのパレスチナの土地でなければならない。それが生きるということなのだ。彼女は歴史のない清潔な場所では窒息しそうになってしまう。パレスチナ以外の土地で生きることはできないというのだ。
 「塩の柱」は創世記19章の言葉。神の怒りを買ったソドムとゴモラが滅ぼされる直前、天使に導かれ義人ロトの一家が脱出する。天使は「途中、決して後ろを振り返るな」と警告する。だが妻だけが誘惑に負け、歩んできた方を振り返ると、街を包む巨大な炎があった。その瞬間、妻は塩の柱になり固まってしまったという話だ。
 約束を破り背後を、過去を振り返る者は動きを止め朽ち果てる。そうではなく、圧倒的殺戮があった過去を振り返るのではなく、「生に向かって向きを変える」。だがそれは常に「死者の手を取っていなくてはならない」。それがつまり、公平なゲームの勝者となって生き残るということの意味なのだ。収容所の生き残りが行うべきことは、道を塞ぐ敵対者を必ず殲滅し、自分をズタズタにしながら生き残ることでしかない。そういう鬼気迫るお話でした。
 それでもやはり、どうしてガザの虐殺を支持するのかはわかりませんでした。
■『アンネの日記』のを読んだ著者の感想は以下の通り:
アンネ・フランクの日記に涙するような調子で、自分のことを泣いてもらっちゃ困る。このいかにもお年頃の娘らしい日記は、死刑執行人が扉を開けてアンネと家族の守られた世界に入ってくるところでお上品に終わっている。何と言っても守られた世界に違いない。たとえその保護が、なんの頼りにならない薄氷でしかなかったとしても。日記は氷が割れたところで終わり、アンネのお利口そうな、そしてなんだかんだと思いやりを振り回す考え深さなどというものは、首を締め上げる恐怖の中で窒息し、銃底で口を一なぐりされれば何も言えなくなってしまう。「キティ」宛の感動的な手紙のおかげで世の中はあまりにもお手軽にカタルシスを手に入れ ― かわいらしい女優たちは結構な役をもらって映画や舞台に出られる。娘は憎しみにあふれて、そんなふうに考えた。(p.135)

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