メディアの話 なぜ小説は事実より奇なり、であってはならないか。大谷翔平とテイラースイフトと。
大谷翔平さんのニュースが飛び交う中。ちょうど1年前のWBCの日本メキシコ戦の結末を思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=6Ro-JHPwbow
0対3から追い上げて、9回、4対5で、大谷が2ベース。そして村上宗隆(ヤクルト)が中越えに決勝の2点二塁打で劇的なサヨナラ逆転。
「あまりに劇的で、フィクションだったら嘘くさい」ってボツになる筋書きだ!というコメントがTwitterなんかでついていた。
そもそも大谷翔平さんの二刀流も、大リーグでの大活躍も、漫画でやったら「リアリティがない!とボツになる」くらいすごい、というコメントがあった。
あまりにすごいひと、あまりにすごい結末は、設定としてありえないので嘘くさくみえちゃう。
だから、ものがたりとしてダメ。
この手の話は、かつて編集者同士でもした覚えがある。
なぜ、そう思っちゃうんだろう。
私の中にもそう思っちゃう成分はある。
ということは、だ。
むしろ、人間が世界了解のためにもとめている「ものがたり」のほうに、実は「がくぶち」みたいなものがあって、そこからはみでると「うそくさいのでダメ」と認知される、ってことになってるのではないか。
0からつくった「ものがたり」こそ、そもそも「うそ」なのに、である。
わたしたちは「うそ」=「ものがたり」のほうこそ、秩序をもとめる。
なぜか。
わたしたちは、がくぶちにはいった「ものがたり」こそがむしろ世界を把握するための「現実」だと認識しているからである。
だから、そのがくぶちから外れちゃう時々起きる「ほんとのこと」は、「うそみたい」と思っちゃう。
「うそ」のほうが「ほんとのこと」よりも、ありがちで陳腐なのだ。
おそらくわたしたちは、そんな認知構造を持ち合わせている。
このがくぶちのサイズがそれぞれのひとの環世界であり、バカの壁である。
経験を積み、歳をとるほど、このがくぶちは強固になる。
なぜならば、経験を積み、歳をとるほど、そんなすごいこともすごいひともめったに出てこないってことをなんとなく知っちゃうからである。
きほんてきには、まず、であわない。大谷翔平もテイラースイフトも藤井聡太も、であわない。
だから、逆にたまに規格外のできごとやひとが登場すると「うそくさい」と認識するようになる。
わたしたちのうそは、だから、つねにどこか「常識」的、である。
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