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本質的にエンタメに興味がないので、もうAIで開発すればいんじゃないかな?

 どうやらそろそろ認めた方が良さそうだと思う。
 わたしはエンタメの業界の端っこにいるわけだが、実はエンタメに興味がないのだ。
 そして、いまのエンタメコンテンツの悲惨な有様を見て、さらに興味を失っているのが現実だ。
 興味を失うのは鬱の始まりらしいが、面白くないな、と思うものに興味を持っていられるほど、わたしはおおらかな人間ではない。

 どの映画を見てもAIで開発したような紋切り型のストーリーやキャラクターやショットである。とりわけショットは最悪である。
 映画は視覚の芸術なのだから、もう少しショットや編集にこだわってもいいんじゃないだろうか?
 正直、業界の人と話していても、まったく話が通じない場合もあるくらいなので、暗澹たる気持ちはさらに深まる。
 ベルトリッチの『暗殺の森』のトレーラーを見たら、これが映画だよな、というショットの連続で観てるだけでたまらなくなる。
 だが、ベルトリッチはもう死んでる。

 失われた、あるいは使われなくなった技術というのはある。
 業界の流行やなんかで、廃れていった技術といえるのだが、しかし、客に合わせたり、これが普通だからという理由で、選択された技術だけが残るというのも、とても貧しい状況ではないか。
 個人的に、自分は古い技術を使って、もの作っていると自負している。それが特異だったり、珍しかったり思われるのは、単純に誰もその技術を使っていないからである。
 とりわけ、私は作劇において、かなり省略を使う人間である。ぶっちゃけ創作は、どこまで省略して、物事の塊を違った見方で見せることが出来るか、ということに意味があると思っているくらいである。
 それによって伝わらない場合はあるが、それでも表現というのはそうした伝わる伝わらないのせめぎ合いではないか。だから、常に伝わる方法だけ選択していくことは、表現の死ではなかろうか。だったら、それをAIに看取ってもらえばいいんじゃないか。本当にそう思う。そのうちできるでしょ、AIが全部作った映画とか。

 最近噂のAIの描画アプリによって、おそらくコンセプトアートの仕事をしている人は仕事がなくなる。単純に描いているだけの仕事は必要がなくなったのである。これからはどうコンセプトを作り出すか、選択するか、という仕事がコンセプトアートの人の仕事になる。それはもう変えられない未来だと思う。
もちろん、我々のような物語を作る人間も、淘汰されるような時代が来るかもしれない。いまある紋切り型の技術を使いまわしていれば、いずれそうなるだろう。
そのときに、AIにはできないことをどう行えるか、が重要になってくるだろう。もしかすると、そうなって、ようやく人間の手に表現が返ってくるのかもしれない。
それは、明るい未来といえるかもしれない。

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