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教授と、あの頃の私に会いたい

大学生の頃所属していたゼミは、学生が3人。それぞれ卒業論文のテーマがかけ離れていたから、いわゆるゼミ形式の講義は教授とわたしの一対一で、授業というよりも雑談のようだった。そんな中で培われた関係は、勝手に師匠と弟子のようだと感じていた。

教授と呼ぶのはやめてあの頃のように先生にしよう。当たり前だがわたしにとって先生は敵わない存在で、周りの教授たちも、あの方は(教授という世界では)若いのに素晴らしい研究者だと陰でおっしゃっていた。とにかくきっと、どれだけ凄いのかわたしの脳みそじゃ理解できないくらいに凄い人だった。大学を卒業してから何度か会いに行こうと試みたが、「今は日本にいません」や、「今年からサバティカルといって海外で1年間研究をすることになり、ちょうど先週出国しました」などというような理由で全て断られた。


文化人類学者である先生は、いくつかフィールド(調査対象地)を持っていた。その先生のフィールドと同じ国を選んで、修士論文や博士論文はともかく、卒業論文のためにその国へ調査に行ってしまう学生はそれまでもそんなにいなかったようだ。一人きりでの1か月の調査。よほど心配してくれていたのか、先生は、知識と経験と人脈とをフル活用してサポートしてくれた。毎日毎日、つまらない日記のような報告メールにまじめに返事をくれた。二段ベットの上の段だけが自分のパーソナルスペース、雨季の東南アジアの荒ぶる気候、調査対象の目も耳も塞ぎたくなる現実、そんな環境に日々溜まっていく疲労とストレス。その全てを、先生からのメールの返事が充実感と達成感に変えてくれた。


帰国後に先生は、本当によく頑張りましたねと、心から褒めてくれた(ように見えた)。素晴らしい資料が手に入ったから、あとは論文を書き上げるだけですね、という言葉に対し、先生と自分の頑張りが報われるために、全力投球で論文を書き上げることを心に誓った。


だが、わたしはそれまでの人生でどんな悪いことをしてしまったのかわからないが、体調を崩し、論文どころじゃなくなった。精神的な弱さがこれを引き起こしているのだと思い自分を責めたが、たまたま実家に帰省中に倒れて緊急入院となった。1、2週間は記憶がない。やっと容体がマシになったときには、論文が書きたいんですと、書かなきゃいけないんですと、わたしは大学に戻れますかと、病院の先生を泣きじゃくりながら問い詰めていた。


病室の窓辺には、先生から届いたピンク色の花が飾られていて、それを眺めることも入院中にすることのひとつだった。なぜピンクだったのだろう。自分にはまるきり似合わないピンク色。その可憐な花に勇気をもらった。


平凡なわたしの大学生活は、クリスマスもお正月も病室で過ごしたあと一月半ばで退院し、それからは毎日夜中まで研究室にこもってパソコンとにらめっこ。卒業できそうな質の論文は何とか仕上がって、不完全燃焼で学び舎を去る、というエンディングを迎えた。最後に先生にどんな評価を貰ったのか覚えていないが、卒業論文で満足しているような人はダメですよ、もっとこうしたかったと思うべきなんです、といったような言葉で慰められた気がする。



ところで今は、人生に充実感や達成感を感じていない。あの時ほど悩んだり苦しんだりしてまでやり抜きたいと思えるほどの情熱を、何に対しても持っていないからだ。そんな自分から抜け出したいのに抜け出せなくて、何のために生きているのかわからないくて、つらい。


先生は、わたしが1番つらいときに、両親とも友人とも違うやり方で、わたしのことを見守り支えてくれた人だった。先生に会いたい。会って叱ってくれてもいいし、呆れてもらってもいい。「不可」でもいいから、評価してほしい。


だがそんなことで、今のわたしのつらさが充実感や達成感に変わることはないとわかっている。あの時と同じつらさではない。この場合、自分を救えるのは自分しかいない。そうやって結局昨日と同じところをぐるぐる回って、今日も1日が終わりそうです。


#日記 #エッセイ #卒業論文 #大学時代

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