見出し画像

ディズニーランドとジャック・ケルアック-2/5

●第一の家

 姉夫婦が住むイエーツ通り1219番地から2ブロック南に移動したシェイディーレーン・ドライブとクラウサー・アヴェニューの角地。ここがケルアックの新居だった。オーランドのダウンタウンから北西方向に車で10分くらい移動した場所である。

 この家の存在はケルアックの伝記類には記されておらず、1996年に発見されるまで全く知られていなかった。

『路上』が出版されたとき、ケルアックは根無し草的な旅に飽きていた。すでに『路上』の初稿執筆から6年が過ぎており、彼はこの作品を書いたときの彼ではなくなっていた。いまの望みは母や姉夫婦との落ち着いた暮らしだった。作家になる望みは捨てていなかったが、破天荒な暮らしは卒業したいと考えていた。

 最終的にフロリダを死地に定めたケルアックだったが、オーランドに来た当初はこの土地に馴染めずにいた。冬の執筆の地として最適だと考えてはいたものの、夏の暑さはこたえたらしい。「アメリカは空気が乾燥している」といわれるが、ニューオリンズ同様、フロリダは湿度が高い。クラウサー通りは時期によって朝霧さえ発生するという。当然、夏はうだるように暑い。ケルアックはフロリダの夏を「熱波の恐怖(heatwave horror)」 と呼んだ。そして「こんなに暑くては筆が進まない」と編集者に泣きつき、まだ出版されてもいない『路上』の印税を前借りして、メキシコに滞在。「凉しいメキシコ高原なら仕事が捗る」と言い放ち、メキシコシティに三週間滞在するも流感に罹患(りかん)。当時長距離恋愛していたニューヨークのジョイス・グラスマンがメキシコで合流しようと荷造りしているその最中に「病気になったから戻ってきた」という電報が届いた、という格好の悪いエピソードが伝わっている。

 結局このときの作品、『ドクター・サックス(Doctor Sax)』はクラウサー・アヴェニューの家で書き上げている。ケルアックは毎分95ワードを誇るタイプライターの早打ちで知られていたが、肝心のタイプは持っておらず、リース品を借りて書いたという。しかし故郷ローウェルでの子供時代を扱ったこの作品は、出版社から却下される。版元は『路上』のような作品を求めていたのだった。

 そこで改めて取り組んだのが、ゲーリー・シュナイダーとの交流をテーマにした『ダルマ・バムズ』である。よく知られる通り、タイプライターの用紙交換の手間を省くため、数十メートルにも及ぶ長い長い巻物のようなテレタイプの用紙を用意。マシンガンのようにキーを叩き続け、1957年11月26日から12月7日までの12日間で原稿を書き上げている。

 ケルアックは夜型人間だった。日が落ちてから起き出す。オレンジの豊香が漂う郊外の住宅地がまどろみに沈む夜更けすぎ。無名の作家は猛烈な勢いでタイプライターを叩きまくる。その音は連日隣近所に響き渡った。

 ケルアック・ハウスの建つ一帯は、フロリダの強烈な日差しを避けるため、歴史の浅い郊外の宅地とは思えないほど木が多い。玄関口の向かって左側には、脚を広げた巨大なタランチュラのようなバージニアカシ(live oak)が、フロントポーチに木陰を落としている。この木陰は同居していた母のお気に入りで、「私は死ぬまでこの天国から離れませんよ」と言っていたそうだ。

 ケルアック親子が住んでいた当時は、このほかにオレンジの木が九本とグレープフルーツの木が五本、さらにみかんの木が四本生えていたという。

 『ダルマ・バムズ』執筆中の12月2日の日記には「月光の射す芝地で氷で冷やしたタンジェリンを食べながら夜を過ごす。ドン・キホーテを読み、寝袋で寝た」とある。同じく同作執筆中の別の夜には、スプートニク2号が通過するのをこの家で見ている。

 南国の夜の愉悦を感じながらの執筆であったが、この原稿を書き終えた頃から、ケルアックは日増しに自壊していくようになる。作品への評価と名声によるプレッシャーから不安に襲われるようになり、酒の量が増えていくのだ。

 長距離恋愛していたジョイスと破局し、義兄との関係悪化に苦しんだ結果、ケルアックはオーランドを後にする。

#ケルアック #旅 #ビートニクス #文学 #ノンフィクション

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?