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映画「ヨコハマメリー」の適正とは言い難い撮影手法のこと

かつて映画界には破天荒な逸話がたくさんあったようだ。
世の中がコンプライアンスにがんじがらめにされた現在、監督も役者もプロデューサーも品行方正になったように思える。

しかし今でも「エシカル(*)」を屁とも思わぬ業界が存在している。

ドキュメンタリー映画業界だ。

*ウィキペディアによるエシカルの説明は以下の通り。
【エシカル(ethical)とは、「倫理的」「道徳上」という意味の形容詞である。 つまり、「法律などの縛りがなくても、みんなが正しい、公平だ、と思っていること」を示す】

●いい画さえ撮れれば、ルールは破っても許されるのか?

人を呪わば場穴二つ。
このことわざの通り、人様のことを悪く言うと自分の評判も悪くなることが多い。

映画「ヨコハマメリー」には言いたいことが色々あった。しかしファンの多い映画である。「ブーメラン効果」でこちらが炎上するリスクが高すぎるので、今まで黙っていた。

しかし今回のリバイバル上映を機に、一つだけ書いておこうと思う。
「ヨコハマメリー」のラストシーンのことだ。

以下の内容は拙著『白い孤影 ヨコハマメリー』の取材中に知り得た内容に基づいている。

シャンソン歌手の永登元次郎さんがメリーさんの入居する老人ホームで慰問コンサートを行う。
老人ホームで働いている方なら理解して頂けると思うが、近年の老人ホームの多くは撮影禁止である。

メリーさんが入居していた津山市の「ときわ園」も園内の撮影は禁止されていた。
理由は幼稚園と同じで、入居者が犯罪に巻き込まれたり、不用意にプライバシーを侵害されるのを防ぐためだ。

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▲Googleマップのストリートビューで確認した2013年当時の「ときわ園」。現在は建て替えられ、少し離れた場所に移転している。
映画「ヨコハマメリー」の老人ホームのシーンは内観だけ「ときわ園」で撮影された。観客が老人ホームと思わされた建物は付近の無関係な建物。

メリーさんが入居していた当時「ときわ園」に勤めていた方に直接確認したのだが、時折慰問でやってきたパフォーマーやその関係者から、表演中の撮影許可を求められることがあったそうだ。しかし上記の理由から撮影できるのはステージだけで、客席の撮影は禁じていたという。

したがってメリーさんを含め、観客である入居者達を撮ることは「不可能です」と断言された。

この元スタッフは映画の撮影で客席が撮られていたことを知らなかったし、当時のスタッフは誰一人として映画のロケ地として自分たちの職場が使われたことを知らなかったようだ。

もちろん中村監督やプロデューサーらは、「ときわ園」関係者に映画の完成を伝えていない。良心的に考えれば「ときわ園」の関係者から晩年のメリーさんが過ごした場所が洩れるのを防ぐ処置だったと言えるかもしれない。

しかしそれはルール破りを正当化する理由になるのだろうか?
職員に撮影の企画書を提出した場合、撮影に制限が加えられる可能性がある。ステージ上の元次郎さんだけで客席のメリーさんの姿が撮れないのであれば、慰問のシーンは成立しない。だからステージを撮る一方でこっそり客席も撮ったのではないか?

理由が何であろうと、結果として「ヨコハマメリー」は、撮影地である「ときわ園」のルールを破り【無断で撮影されていた】。
逆に言えば、適正とは言えない方法で撮らなければ、感動のクライマックスは存在しなかったはずだ。監督の心情として、何と言われようと撮らないという選択はあり得なかったのだろう。
「一般人」であるメリーさんを撮影するために、こうまですることが正しいのかどうかは分からない。ただ中村監督が現場のルールよりも、自分の映画づくりを優先したことだけは間違いない。

この事実を知っても観客のほぼ全員はこう思うのだろう。

「それがどうしたの? 良い映画だから良いじゃない! おかしな言いがかりを付けるもんじゃない!」

倫理よりも作品。
撮影禁止のルール破りは「撮影上での苦労話」として受け止められるにちがいない。

つまり「ヨコハマメリー」は監督と観客の「共犯関係」で成り立っている作品なのだ。

●挨拶もなしに黙って映画を撮る人たち

良く似た経験を個人的にしたことがある。

今年(2020年)3月に公開されたドキュメント映画「ダンシングホームレス」がそれだ。

僕は2017年の10月に横浜の黄金町で「土方巽 1960 しずかな家 III」というイベントを実施したが、そのとき「ダンシングホームレス」の主題であるダンスカンパニー「ソケリッサ!」に出演してもらった。

映画の撮影の件はまったく知らされておらず、関係者からの挨拶も説明もなかった。
イベントの開始直前(僕からみて)大掛かりな撮影の準備をしているのに気がついてこちらから質問し、ようやく事態が飲み込めた。

イベントの出演者を撮影する際に、イベントの運営側に無断で撮影するというのはどういう訳だろう?

こちらはイベントの進行をつつがなく行わなければならず、最少人数で廻していたために話し合いは後日行おうと考えた。撮影の邪魔をすることで賠償問題などが発生すると面倒になるとも思った。そもそも無断撮影しているのは向こうなのでこちらに非があるとは思えない。しかし商業映画関係者の不遜な態度を伝え聞いていたので、今いる彼らも何をするか分からない。時間的にも精神的にも余裕があるときに話した方が良いと思ったのだ。

イベントが終了して数日してから「撮影を許可したのだから、うちのイベントで撮った映像のコピーが欲しい。とくに何かに使うつもりはないが、内々の資料として保管したい」と言ったところ、頑なに断られた。
映画が完成しないうちは、部外者に映像は見せられないというのだ。

そこで「では映画完成後だったらどうだ?」と交渉したところ、やはり断られた。
無断で撮影しておいて取り付く島もない。
そこで僕はうちで撮影したパートの全面使用禁止を通告した。

こちらに対して謝罪も礼もないのだから、当然だと思う。

その後助監督か何かだと思しき若い男性から「数万円払うから使わせてください」という電話が掛かってきたが、きっぱり断った。

僕は監督の名前も顔も知らなかった。
こんな頼み方はないし、こんな失礼な話はない。
監督自ら頼むならまだしも、下っ端に電話させるとはなんという態度だろう。

「ソケリッサ!」のリーダーであるアオキ裕キさんはこの件について「当日ニュースのAFPさんが取材に来ていたから誤解したんじゃないですか?」とメールしてきた。

AFPの取材者である穐吉洋子さんはきちんと事前に挨拶してくれたし、世話話もした。
そればかりか取材後に写真を何枚もシェアしてくれた(下の写真はその内の1枚。クレジットが入っていなかったので、こちらで入れました)。
件の監督とは大違いである。間違えるはずがない。

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映画公開後、僕は初めて監督の顔を知った。
名前は三浦渉というそうだ。
まだかなり若い。
下の写真でメガネをかけた右側の人物が三浦監督だ。

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(写真は「映画.com」より)

しかしきっと映画の世界ではこのようなことがずっと昔から行われていて、この監督もそれを真似しただけなのだろう。
その先達のひとりとして中村高寛監督がいるということだ。

業界では当然の慣習なのかも知れない。
しかし「業界の常識は社会の非常識」ということは往々にありうるのではないかと思う。
どうだろうか。

これを読んだ上で、中村・三浦両監督から反論がくることを歓迎する。

●追記:この記事の反響

Twitterからの反響をいくつか拾ってみた。



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