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『ペリー提督日本遠征日記』

【最終的には日本人論として読んでしまうんだけど】

三島億二郎の『扇浦日記』の翻刻が契機となって、改め1853年のペリーら黒船来航の日本史上における意義について、問い直そうとしている。前々から、日本側から見て、アメリカ側の"開国"は、かなり強引、恫喝に近いやり方だな、とおもっていたが、『ペリー総督日本遠征日記』を読んで、ますますその思いは強くなった。

同時代の日本人の役人について、その外交術に一定の評価をしつつも、やはりそこは、当時の新興国家であるアメリカの有利な方に、さらにいうなら、西洋人の常識を、‟国際的な常識”として押し付け、日本人に自国に有意なやり方を押し付ける辺り、やはり強引と言わざるを得ない。その西洋的価値観の押し付けこそが、後の帝国主義を肯定する一因となったわけだし、さらにうがった見方をすれば、今に続く西側諸国側の価値観の偏重につながる遠因となってしまっているのでは?とすら、思ってしまう。

同書翻訳の「解説」なかで、竜門冬二氏は、再読して当時のアメリカの立場を理解し、少し考え方を改めたとさえ、書いているが、やはり自分には、読後においても、黒船来航は強引なものであったようにしか思えない。ただ、幕府は決して、当時の攘夷派が考えるような、弱腰であたっていたわけではないし、可能な限り自分たちに有利な条件で交渉をしようとしていたということも、ペリー側の記録を読むと良くわかる。

幕末・明治期の日本に対するアメリカ政府の考え方を学べば学ぶほど、渡米までした雨森信成が最後になぜキリスト教を棄教したのか、彼をして国家主義的な思想に近づけさせたのかが、なんとなくわかるような気がするのだ。「日米和親条約」からして、対等条約ではなかったということに、改めて気がつかされる。

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