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アメリカ屋台の夜は更けて

人生が、なぜこうなったのか、生きる手段として携わってきた内容が、あまりにも幅があり過ぎて、しかしだからこそ、今の自分というのが生まれたのは確か。

印刷業▶電算写植、電子編集機、印刷・製本技術
メディア▶地方紙、経済誌、スポーツ紙、在日、食品、観光ウェブメディア、ブログなど
取材業務▶マリンスポーツ、経済、外国人・在日、人権問題、沖縄など
事業分野▶シェアハウス・ゲストハウス運営、アメリカ屋台共同運、カフェバー経営、共同売店共同運営、ナイトツアー企画実施、イベント企画、ブックカフェ経営、そして、家業のメガネ事業を手伝い

公的活動▶観光誘致、修学旅行誘致、ツアー企画などの地域活性化事業、

これまでやってきた色んな事柄について、誰かの役に立ちそうな部分を抜き出して、書いてみることにしました。もしかしたら、何かのヒントになるかも(^^)v まずは、面白そうなとこで、アメリカ屋台というやつ。

生まれて初めて屋台をやってみたー!

ミラクルシティコザという映画をご存じでしょうか。俳優の桐谷健太さんが主人公で、コザ(今の沖縄市中心街)を舞台にしたコミカルだけどシリアスな映画です。

私が関わりを持った2000年頃は、コザの熱気がまだ少し感じられる時代で、週末になると米軍関係者が米空軍嘉手納基地第2ゲートから国道330号線に向かって伸びる、およそ400m程度のコザ・ゲート通りのライブハウスやクラブに繰り出し、にぎわっていました。

通りは、英語看板だらけで、インド人の経営するファッション店と、ナイトクラブ、ロックライブハウスが中心。当時はまだ、行政が作ったミュージックタウンもなく、夜遊び中心の、ちょっとアウトロー的な雰囲気の場所でした。

偶然、コザで暮らすことになった私は、ゲート通りでロックミュージックに触れ、音楽と出会いました。毎週末の金、土曜日は、アメリカ人も日本人も関係なく、ゲート通りで出会った仲間たちと、あっちの店、こっちの店を梯子して朝まで楽しみます。

ファーストチャンス
ライブバーJET
ゲート2ガレージ
アルズプレイス
クラブフジヤマ
ハイダウェイ
ジャンクボックス
深海

ある夜、行きつけのBAR「ペグ」でぼーっと外を眺めていた時です。アメリカ人たちが、通りの焼き鳥屋台にタムロして、5本5ドルの焼き鳥を買っていました。

「この店、もったいないね。入り口が広くて、スペースがあるんだから、ここでも焼き鳥を売ればいいのに。日本人相手にしているより儲かるよネ」

踊り疲れ、飲み疲れて、ペグのカウンターにやってくる地元客は、一杯500円のビールを1~2杯飲むだけですが、焼き鳥屋台には、ライブ演奏の休憩時間になると10人、20人、次から次へと客がやってきます。

当時、通りには飲食店が一軒しかなくて、腹ペコの米兵たちをターゲットにした無許可屋台が4~5店ほど出ていました。それらは、冷凍焼き鳥に業務用のタレをぶっかけただけの、旨くもないシロモノですが、米兵たちは喜んで買っていたのです。

「じゃあ、お前、やれよ。」

ペグのオーナーはギタリストです。普段はアメリカ人相手に演奏しているのに「俺はアメリカーが大嫌い」という面倒くさい人でしたが、外で商売するのはOK、任せる、というではありませんか。

とはいえ、一人では出来ません。仲間が必要です。参加者を募ったら、某大手企業のエンジェル部門を担当していた女性と、フリーでITプログラミングをやっていた男性が参加することになりました。BARのオーナーを入れて4名体制です。

店の軒先を活用した簡易屋台は手作りです。製作費わずか10万円で済みました。費用は全部私が責任を持ちましたが、利益はみんなで折半です。

営業は、米軍関係者が出てくる金曜日と土曜日だけ。メニューは、みんなであれこれ知恵を出しました。しかし、オープンを知った近所の屋台のオヤジ、これはヤクザ系のおっさんでしたが、早速因縁をつけられました。オープンしてからも、かなり嫌がらせをされましたけどね。

「あんたら、後から来て、わしらと同じ商売するんじゃないだろうな。」

つまり、焼き鳥は売るな、ということです。

「焼き鳥は売りませんよ。別のモノをやらせてもらいますのでよろしく」

とはいえ、串に刺した焼き鳥メニューがないと全く売れません。いろいろ作ってみたのですが、最初の1ヵ月、つまりは8回分の仕込みは無駄となりました。

ふつうは、これで諦めるかもしれませんね。投資資本が少ないうちに、やけどしないうちに引っ込む、な~んてことは、ない! なぜならば、あんなオッサン連中に出来て、私らに出来ないはずがないから。

冷凍焼き鳥に熱湯をぶっかけて溶かし、ガスで焼き、5リットル入りの業務たれをドバっとかけて、紙コップに入れて出来上がり。

私が思いついたのは、鶏ではなく、豚と牛です。その代わり、手間はかかる。なぜならば、肉を手で刺します。串刺しサイズに肉をカットしてくれる業販先を見つけ、さらに、タレの開発にも着手しました。

とはいえ、一からのタレ作りは大変なので、業務用の焼き鳥のタレ、焼き肉のたれ、それらを調合して、さらにパイナップル、味醂、韓国唐辛子などを配合して作り上げました。いわば万能タレで、野菜炒めや焼きそばにもピッタリの、自慢のタレとなりました。

「焼き鳥はやりませんが、豚と牛は焼きますよ」との開き直りでリベンジ。ガスではなく備長炭を使いました。炭の香りが漂います。

豚も牛も肩ロース。しかし、牛の場合、筋があります。そのため、パパイア酵素を入れてもみ込んだ後、串にさします。いずれも卸価格は、当時100グラム100円以下のアメリカ産です。

豚はクレイジーソルトで味付け。牛は、コショウ一振りで匂いが立ち上り、人を引き付けます。アメリカ人は豚よりも牛。ウチナーンチュも食べてくれて、その多くがあっさりした豚肉。

業務用の店よりも、あきらかに旨い。となれば、客が客を呼び、評判になります。5本で5ドル。ステーキ肉を一枚食べたほどの満足感があります。

さらに、鶏肉を串に刺さずに提供することも思い付きました。焼き鳥丼です。こちらは4ドル。タレが旨いのでアレンジメニューが出来たわけです。こちらも人気商品になりました。

クリスマスや大みそかなどは、死ぬほど忙しくて、アメリカ人の若者たちが40人、50人と列を作って待つんです。しかも彼らは、並ぶことに慣れているので、文句は出ません。肉も足りなくなり、大慌てで再仕込み。

先の、オッサンはイチャモンをつけたくともつけられません。串に刺した焼き鳥は売ってないからです。ふっふっふ。焼き鳥丼は、網を用意して、そのうえで鶏を焼きました(^^)v

更に開発したのが、若い米兵のためのエッグロール。スプリングロールとも言いますね。調査した結果、これを好きなアメリカ人が多いことが分かったのです。といっても、仕込みは私の役割ですが、これ以上の時間は取れません。

この、1ドルメニューの開発にも原因がありまして、給料を使ってしまってすっからかんになった10代の若い米兵の「1ドルしかない。何か食べさせて~」から始まりました。

仲間と一緒に、色んな食品企業の春巻きを食べまくり、味を調査した結果、〇〇の商品が味も価格もオッケーとなり、決定。タレは、またもや研究開始。市販のタイソースをベースにオリジナル化。1本1ドルのばら売りメニュー完成です。これだって、半分が利益として残ります。

私は、金曜日と土曜日の午後から肉の仕込みを開始します。最終的にはすごい量となり、手には串だこが出来たほどで、今も治っていません(;'∀')。

ヤクザなオヤジからは「あそこは犬の肉、猫の肉」などと嫌がらせをされましたが、最終的に我々の屋台が一番人気となりました。

プログラマーが肉を焼き、女性スタッフは春巻き作りや会計をします。仕込みが終わった私は、営業が始まると用無しですから、さくら客になってフラフラしたり、ライブを見に行ったり、飲みに行ったり、遊んでるだけ。

このまま続けたとしたら、たぶん、本格的な店舗展開ができたはず。しかし、これは本業ではない。遊び半分で始めただけのこと。

ちょうどその時期に、商工会主催の企画において私の案がグランドチャンピオンを獲得したため、その企画を実施せねばならず、屋台を止めることになりました。その屋台、BARの客でやりたいという人に無償でレシピ付きでゆずったんですが、水面下の、つまり、仕込みをちゃんとやれなかったようで、いつのまにか消えましたけど。

しばらくの間、アメリカ人の間では「旨い照り焼きビーフの屋台があったんだぜ」という噂が残っていたそうです。

あ、当時の売り上げは、材料代を引いて4等分にして、みんなの飲み代に消えましたとさ(^^)v

これは、私にとっての青春時代。そう、年齢は関係ないんですね。コザと本格的に出会うきっかけとなりました。

この時に、ミラクルシティコザの主要舞台のひとつとなったカフェオーシャンの、マスター兼ミュージシャンのヤッシーとも友だちになり、一緒にゲート通りの歩道に座り込んで、酔っぱらった彼にギターを弾かせ歌わせて、アメリカ人からチップをせしめ、その金で、今も元気に演奏しているライブハウスJETで飲みまくったのでありました。

あれからみんな、大人になりました(^^)v

PS: 一見ポジティブシンキングに見えるでしょうが、こうした経緯に至る前には、鬱病こうじて三度の自殺未遂、夫の病死、といったネガティブな日々もあったことを白状しておきます。人生は、なんくるないさ~♪