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Coccoのこと。


最近私のCocco熱が再燃してきている。
最初のはまりは高校のとき。確かすぐに活動休止しちゃったんだけど。

好きな人も嫌いな人もどうでもいいひともいるだろうけど、私は好きなんだ。
何でだろう?って考えても答えは見つからない。
ただすき。
それだけじゃあだめかな?


まあそんな話はおいといて。
Coccoの活動休止のドキュメンタリーをyoutubeでみた。途中までだけど。
(part5のUPを切に願う)

最初はドキュメンタリー映画、「だいじょうぶであるように」の映像がないかと思って検索したんだけど、出てきたのはこれだった。
すごい偶然。でも、見ることが出来てよかったと思う。


活動休止前の最後の武道館ライブの終わりのほうでCoccoが語っているのを見て、聴いて、
まず、「ああ、この人は『楽しい時間にも必ず終わりがある』って言うのをよく知っているのだな」と思った。

Coccoが語っていることは私にはうまくまとめられない。
それこそ全文書き起こして、表情、会場の様子、その場に流れていた空気、全てを書き留めないと、
彼女の言いたいことはきちんと伝わらない気がする。
だからそれを見て私が勝手に思ったこと。を書き留める。


いつか終わりが来る「楽しさ」。
終わりが来る、と解っていて、単純に「楽しい」とか「幸せ」とかいう感情を持ち続けられるだろうか。

たとえば明日永遠にお別れする友達と、嘆くことをせずにただ笑いあえるだろうか。
普段どおり接することが出来るだろうか。
難しい、気がする。
どうしても別れを惜しんでしまうし、悲しんでしまう。それまでどんなに楽しい思い出があったとしても。

達観してしまえば、そうできれば持ち続けられるのかもしれない。

あるいは「終わってしまうからこそ大切にする」ということが最初から出来るのなら。
それは未練を断つ、ということと似ている。
「楽しかったね」と思い出すことはあっても「あのときに戻りたい」と願わないこと。
変わってしまったものや人に対して「どうして変わってしまったの?」と思わないこと。

少なくとも、どんなことにも未練を残してしまう、私のような人間には難しい。


そしてまた感じたのは、Coccoはとても愛情深いのではないか、ということ。
全てのことやものや人を愛してしまうから、別れが、つながりが消えてしまうことが、
身を切られるようにつらくて、避けてきたのではないかと思った。

だから、Coccoはそれまで「楽しい」という感情を、「愛しい」という感情を持つことを避けてきたのではないかと思ってしまう。
最初から持たなければいつか来る「終わり」に怯えずに済む。
持ってないものは、なくならないでしょう?
なくならなければ、悲しいとかつらいとか思わずに済むでしょう?

そんなことを考えた。

以前見た、活動再開した時のザンサイアンというツアーでCoccoは「前は楽しいのが怖かった」という趣旨(多分)のことを言っていた。
そのときはよくわからなかったけれど、今回この映像、というかCoccoの言葉を聞いてやっとふに落ちた気がする。
もやもやしたものが解消された感じ。

もしかしたら。というかもしかしなくても、Coccoはこんなこと考えてないかもしれないけど。
私は勝手にそう受け取った、というお話でした。

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