字幕を入れる②
実際に字幕を入れる作業を進めていくと、聞こえた音を字幕にしたくとも、上手くいかない部分が出てくるものだ。例えば、話し言葉の宿命ともいえる言葉の省略。話されたものをそのまま書き起こしてみると、話し言葉として何もおかしくないのに、省略のおかげで文章としては成立しないことが、意外に多い。
『阿賀に生きる』の予告編では、それにまつわる興味深い演出がなされている。
予告編の冒頭7秒に注目していただきたい。雨降りの稲刈りで、長谷川さんが「お前さんたちも(雨の撮影で)ご大儀だー」と呟くシーンだ。字幕も「お前さんたちも(雨の撮影で)ご大儀だー」と丁寧に表示される。
だが実際、映画内の長谷川さんの声は、ここでは「お前さんたちもご大儀だ」としか言っていないのだ。
現場で一緒に雨に濡れてカメラを回しているクルーに、長谷川さんはわざわざ(雨の撮影)でと理由を説明する必要はない。
だが、我々観客は撮影クルーと同じ時間を過ごしているわけではない。字幕による(雨の撮影で)という補足情報があるから、我々観客は、これが撮影クルーに向かっての発言だと理解できるが、それが無ければ、長谷川さんが誰に向かってなぜこう言っているのか分からないと思う。
急いで記しておくと、文章としては「お前さんたちもご大儀だ」のままで違和感ない。だから(雨の撮影で)は、文章を成立させるための挿入ではないだろう。
字幕に補足を加えることで、字幕は、話されている内容を文字化するのみでなく、現場と劇場との共通理解の醸成も促している。それにより観客は、長谷川さんはクルーに向かって喋っているのだな、と分かるわけだ。
話されていない言葉も字幕に載せることで、字幕を二重の意味で用いる演出になっているのである。
字幕があることで、本作では(雨の撮影で)という説明を加えることができたが、そもそも字幕が無ければ、このやり方での補足はできない。字幕というのは、語られた音声がただ文字化されているだけでなく、必要であればこうした演出を載せていくものでもあるのだ、と、言われてみればそりゃそうなのだけど、改めて興味深く思った演出だった。
省略が多い会話は、ある程度の関係がある状態でのみ通じるものである。初めて現場へお邪魔するとき、その場で話されていることはなかなか分からない。それは言葉ゆえというより、会話で何が省略されているのかの共通理解がないからである、という方が大きい。しかし、現場で過ごす時間が長くなるにつれ、省略されて言外に語られているものが、少しずつ理解できるようになっていく。言外のものが分かるようになる、それはとてつもない醍醐味であり、映画にとっては前進していく脈動ともなる。
しかし、限られた上映時間を通じてその醍醐味をお客さんに届けるのは、とても難しい。それでも何とか届いてほしいと願って、省略をどうにか上手く活かし、現場と劇場の共通理解を作ろうと試行錯誤を積むことは、ドキュメンタリー作りの大切な仕事のひとつであると思う。