フッサールのデカルト的省察(その1)

 フッサールはまず、明証の種類として「十全的明証」と「必当然的明証」を区別しているんだけど、この区別はたいへん重要で、違いが分からないと先験的現象学が分からないと言っても過言ではない。だいたいフッサールはワイエルシュトラスの助手をしていたぐらいのガチの数学者だったから、書き出しは群論の定義みたいなつもりで書いているのかもしれない。
 「十全的明証」とは「完全性」とも言い、予測的思念とか付随的思念を伴わない充実した経験のことなんだな。
 この定義は、先験的自我の「生き生きした現在」の伏線になってることが分かる。つまり意識の現前としての現在は、過去の回想とか、知覚対象の裏側、等々を伴わない経験だから、予測的付随的思念を伴わないという意味で、十全な明証になるわけだ。
 これに対し「必当然的明証」とは、「明証において与えられた事実あるいは事態の存在が、批判的反省によって、存在しないことが絶対にありえないものとしてあらわになる」ことである。
 「十全的明証」と「必当然的明証」は「基礎づけ」によって繋がっていて、「必当然的明証」は点としての意識の現在の「十全的明証」から、やや時間的広がりをもってる経験なんだな。それが「与えられた事実」が「批判的反省」による吟味の対象となりうる経験だ、と思う。
 私がそう解するのは、フッサールが先験的現象学において、自我の生き生きした現在の十全性から出発して、先験的経験の領域を探究していく場合、必当然性がどの範囲までかは不明だけど、少なくとも必当然性の範囲で、十全性が及ぶとしているからだ。言わば「必当然的明証」は「十全的明証」が持つ絶対的明証性を汲み取るパイプのようなもんだ。
 で、それよりさらに低次の明証性が「自然的明証」なんだな。自然科学者は概ね、この自然的明証に身をゆだねて探究しているわけだ。世界が存在することの十全な明証、いわば絶対的明証を探究してるわけではないからね。
 例えば音楽を例にとると、今現在、音を聞いている瞬間が「十全的明証」であり、直前に過ぎ去った音が「必当然的明証」であるとして、昨日聞いた音楽は「自然的明証」に相当するんじゃないかと思う。この場合、「必当然的明証」が直前に過ぎ去った聴覚経験のどの範囲まで及ぶかは不明なんだけど、その範囲を批判的に探究するのが、先験的現象学というわけだ。先走って言えば「過去把持」を細かく分類していくのも、好きでやってるんじゃなくて、必当然性の範囲を確定するという先験的現象学の死活問題なんだな。
 なぜ、こんな面倒なことを考えるかと言えば、フッサールは演繹的推論を排除してるからなんだ。それが「基礎づけ」の意味だ。だから定義といってもやはり群論の定義とは違う。あくまで「明証」による「基礎づけ」がどのように波及していくかを説明しているわけだ。フッサールは哲学の出発点としてあらゆる他の学問や論理学を前提としない立場に立ってるからね。
 なんか最初に「基礎づけ」とか「十全的明証」「必当然的明証」と続くと無味乾燥だし、どれも似たような言葉でウザいって思うんだけど、途中からだんだん面白くなってくるんだな。その面白さが分かるにはやはり最初の定義の理解が肝心だ。
 なぜなら、この明証の濃淡の分類は、デカルト批判と密接に関連してるからだ。デカルトが犯した過ちは、フッサールによると演繹的推論を無批判的に援用したことにある。デカルトはコギトの存在を世界の一小部分としての思惟実体にして、それ以外の残余の世界を思惟実体から演繹推論するという方法をとったわけだけど、推論した結果にコギトの絶対的明証が伝わるかどうかは不明なんだな。第一、デカルトのコギトは「生き生きした現在」じゃないから十全性ではないし、思惟実体の存在は疑えないとしても、推論した結果の存在が「絶対に疑えない」という必当然性の要件を満たすかどうかも不明なんだな。これは演繹推論がどういう性格のものか無批判的に使ってることによる。だからデカルト以後の諸学問は、コギトによって自分の学問を基礎づけようなんて、これっぽっちも考えてない。コギトが絶対的明証であることは分かる。で、それがどうした、ってことになるんだな。
 だからフッサールは最初に自分で明証性の濃淡と「基礎づけ」による明証の伝わり方を定義して議論を進めているわけだ。学者の研究活動において漠然と前提されてる「基礎づけ」と「明証」との関係をきちんと定義して、そこから絶対的明証としての先験的自我の「生き生きした現在」を見出したわけだ。デカルトのようにコギトからあらゆる経験を排除していったのとは逆の方向でほぼ同じ明証に到達したわけだ。
 現象学が自我の同一性を前提としているからイケてないと思うのは早トチリだ。先験的現象学は、自我の同一性を対象としてるんじゃなくて、同一の自我が生きている流動的な意識生命を対象としている。だから、先験的自我の十全な明証が流動的な意識生命のどの範囲まで必当然性として及ぶかが問題になる。
 これはまず、現象学的判断中止によって開かれた無限の先験的経験の領域を調査することから始まる。それが無限な領域であるのは、現実的な経験領域と平行して広がってるからだ。知覚、過去志向、想起など、すべての経験は、その存在の判断中止によってそれに対応する、「かのような知覚」「かのような過去志向」・・・もまた含まれていることが開示されるからだ。その探究は、自然科学者の研究態度と同様の「自然的明証」によって行われる。その後で、第二段階として、探究された先験的認識一般の批判を行う。その批判は、必当然性の範囲の確定となる。これにより先験的自我の十全性が及ぶ範囲が定まるわけだ。
 先験的反省は自然的反省とは異なり、自我が実際に行った自然な存在定立を行うことはしない。根源的体験に代わって、それとは本質的に異なる体験が現れる。世界に素朴な関心をもつ自我の上に現象学的自我が、世界に関心をもたない傍観者として位置している。世界に関心をもたないがゆえに、美しい、善い、有用などの付随的思念や予測的思念から離れて純粋に記述される、とフッサールは言う。
 つまり付随的思念や予測的思念を伴わないわけであるから、先験的反省の対象は、十全な明証、先験的自我の「生き生きした現在」と同じ絶対的明証となる。先験的経験は「自然的明証」だが、先験的反省は「十全な明証」となるわけだ。この先験的反省の記述が、普遍的な批判の基礎としての役割を担うことになる。

 

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