「創造的破壊」の破壊

 技術革新のことを創造的破壊というが、一体何が創造だというのか?
 そこでシュンペーターの定義を参照してみると、彼の言う創造とは「新結合」のことなんだな。彼は「生産」を利用可能な物と力の結合と定義して、技術革新を「新結合」としている。つまり利用可能な既存のものを新しい方法で結合することだ。これはまさに資本主義的意味での「創造」を正確に定義している。破壊と言っても、旧技術を破壊した新技術もまた次の新技術によって破壊される。破壊されうる「創造」なんだな。また既存のものの新結合だから一般に理解されうる「創造」でもある。
 つまり「創造」を何らかの既存コンセプトの新しい組み合わせとする思想である。それは新陳代謝としての創造であり、一般消費者に受け入れられる創造でもある。受け入れられなければ商売にならない。まさに資本主義的創造だ。
 例えば電子辞書を最初に開発した企業経営者は、身の回り品の名前をPCにデータ保存して乱数で組み合わせた出力結果から、新製品のアイデアを考えていたらしい。それで「電卓」と「辞書」という既存製品の組み合わせから電子辞書を「創造」したということだ。
 こうしてみるとAIには創造性がないのではなく、逆に創造性が無限にあるとも言える。なぜなら既存コンセプトの組み合わせなら機械でも可能だからだ。むしろ計算結果が無限に発散してしまうので、何らかの人間的意味のあるフレームで制限する必要がある。それが「使えそうなアイデア」というフレームだ。そうしたフレームがないと、鷹の爪団のレオナルド博士のような発明になってしまう。
 それはまた旧ソ連の開発したTRIZという創造的プログラムの設計思想でもある。だからAIとTRIZを「新結合」すれば、機械的創造における計算結果の発散というフレーム問題も解決できるかもしれない、と私は思う。

 ところで私自身はそんな「新結合」には何の創造性も認めない。シュンペーターの「創造的破壊」は創造の真の意義をナメきっている。
 革命が真の創造であるためには、資本主義的な創造をエセ創造として破壊しなければならない。「創造的破壊」に創造のスピリッツはない。破壊すべきは資本主義的創造それ自体である。
 そのためにはラジカルな批判精神による目利きが必要である。一見、創造性があると認められる様々な芸術作品、新製品、ゲーム、アニメ等々、それらの文化的産業的作物が既存のコンセプトのアナロジーによる結合に過ぎないものであるなら、そんな創造性は否定されるべきだ。学術論文の大半もまた先行研究のアナロジーによる結合に過ぎない。あの研究とこの研究はロジックが似ているから一緒にしてみたらオモシロかろうという程度のシロモノだ。同じ手口を何度も繰り返されると鼻についてウンザリする。
 確かに資本主義的創造は強大であり、現代において独創的と評価される作品の大半は既存の物の結合の新奇性でしかない。一般に理解されうる「新結合」でないと売れないし、それ以外に創作者として生き残る道はないように思える。
 だけど真に才能のあるクリエイターは、そうした「新結合」を逆手にとって過剰に行って笑い飛ばすという自己批評性が認められる。真の創造的作品は、資本主義的創造それ自体を虚妄として批判する視点を持っている。そうした批判精神という作家性を失うならば、作家性のないAIによる創造に人間は敗北するであろう。
 ChatGPTの支援で小説を創作したとしても、その小説に作家性が認められないのは下らないからではない。むしろヘタな素人より見事な出来映えかもしれない。だけど創造それ自体を問題視するという自己批評性の欠落した作品は文学ではないのだ。
 ミシンとコウモリ傘との「結合」について、今日ではロートレアモンが当時の企業・個人名鑑の広告欄を参照したものと推定されている。(石井洋二郎訳注参照。これは詳細で素晴らしい。)
 comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie !
 だけどたとえ資本主義的な出会いの広告であるにせよ、それを詩とすることができたのはロートレアモンの天才であり、おそらく創造した本人にとっても意外で「偶発的な出会い」la rencontre fortuiteであったに違いない。真の創造はアナロジーによる結合ではなく本人の予想を超えたものだ。
 作品から作者の意図を理解しようとすることほど無礼な振る舞いはない。それは作者が意図したものしか産み出せていないという決めつけだからだ。作者の意図に還元しうるような創造はニセの創造でしかない。真の創造者は自己の意図を超えたものを産み出すのである。
 

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